第二十一話
それから暫く。二人は特に会話らしい会話もしないまま、ただ静かな時間を過ごした。風の音、鳥の鳴き声、微かな生活音。普段であれば気にも留まらない些細な響きが、やたらと
こんなに穏やかな時間を分かち合っているだなんて、まるで本当の夫婦にでもなってしまったかのようだ。本来なら、夕霧にはこの立派な屋敷に足を踏み入れる資格も、武家の嫡男たる鉄の側にいる資格もないと言うのに。大層な思い上がりを捨て去らねばと、必死に自分を戒める。
やがて、幾らか日が高くなってきた頃、鉄が
「側にいてくれてありがとう、夕霧」
「!」
基本的に、彼は夕霧を呼ぶ際は「夕霧さん」と敬称をつけている。それが本来の適切な距離感だからだ。呼び捨てにするのは人の目がある時。
だから何故、今呼ばれたのかが分からない。
「……今は、他の誰もおりませぬが」
「そうだね。でも、僕はずっとこう呼んでいたい。嫌かい?」
「い、いえ……呼びやすいように、お呼びくださいまし……」
「ありがとう。いつか、君の本当の名前も呼ばせてほしいな。無理強いをするつもりはないけれど、君がそれを許してくれる日が来るのを、僕はいつまででも待っているよ」
「鉄様……」
軽口も、不埒な欲も挟まない彼の言葉が、夕霧の中に不思議な熱を灯してくる。昨夜に引き続き、どうして他者のいない場所でまで夫婦の真似事をしたがるのか。「いつまででも」だなんて、いつまでここに置いてくれるつもりでいるのか。彼の隣は分からないことだらけだ。
「……さて、と」
優しい手付きで夕霧の手を解かせ、鉄が渋々といった様子で立ち上がった。黙って見上げれば、彼は困ったような表情で笑う。
「そのような目で見ないでくれ。引き留められているのかと勘違いしてしまう。今日は、仕事で外へ出なければならないんだ。あまり遅くならないうちに帰るよ」
「か、畏まりました」
そう言うと、鉄は
出掛ける鉄を見送った後、夕霧は再び奉公人たちへの聴取を開始した。しかし、幾人かと言葉を交わしてみたものの、事件に関して有力な情報は得られなかった。そもそも屋敷に来たばかりの新参者が会ったこともない故人の話を自然に切り出すのは無理があるし、奉公人たちからしても積極的に話すようなことではない。かく言う、夕霧が事件の調査をしていることを打ち明けた場合、それによって口も心も閉ざされてしまう可能性も考えられる。警戒心を与えない慎重な立ち回りを意識するのは、なかなかに骨の折れる作業だった。
それならばと、別の切り口を求めて夕霧は女中に尋ねてみる。
「不躾で申し訳ございませんが、鉄様が
鉄の話では、亡くなった喜三郎には妹がいて、現在は医者の元へ預けているとのことだった。身内であれば、同僚たちとは違う視点の情報を知り得ているかもしれない。無理に聞き出すことはもちろんしないが、少しでも手掛かりが欲しいところだ。
「え……!? 奥様、どこかお体の具合が優れないのでございますか……!?」
「いえ、断じてそのようなことはございません。ただ、有事があった際に備えて、私めもお屋敷の外の様子を知っておきたいのです。いかなる時でも、鉄様や皆様を支えられる存在になりたいと考えております故」
「左様にございましたか……! さすが奥様、御立派なお考えにございます! ええと、大きな病院も近くにございますが、少し離れた土地に旦那様が幼少の頃よりお世話になっていたお医者様がいらっしゃったはずです。御贔屓にされている、とのことでしたら後者ではないかと……。少々お待ちください、私よりも詳しい方々に確認を取ってまいります!」
ガバリと頭を下げ、若い女中は元気いっぱいに走り去って行った。取り残された夕霧が、ひとまず残りの作業を黙々と片付けていると、やがてまた元気いっぱいの足音を響かせながら女中が戻って来る。手には何かが書き込まれた紙切れが握られていた。
「お待たせ致しました! 大通りから馬車に乗り、少し歩いた所に診療所があるとのことです!」
「あ、ありがとうございます。お手間を取らせてしまいましたね」
「いえいえ! 奥様のお役に立てるのでしたら、幾らでも走り回ります!」
「左様で……」
紙切れは手書きの地図だったらしく、指をさしながら道順を説明してくれた。仕舞いには直接案内するとまで言い出したが、申し訳ないのでそれは断った。彼女には彼女の仕事があるのだし、事件の調査へ巻き込むわけにもいかない。
外出用の着物に着替え、夕霧は一人で屋敷の門を潜った。
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