こじらせマエバのオワるとき。
緑茶
本編
マエバというのが彼女のあだなだった。
それは苗字が
とはいえ高校二年生の現在、歯列の矯正が済んでからも、彼女はそのあだなを気に入っていた。
なぜなら、自分がその名で呼ばれ、疎外されている現状がある限り、彼女は、自分が『このクソ世界』に取り込まれずに済むと考えていたから。
一種のアウトロー。女サムライ。そう考えて、難しい洋楽や小説にばかり目を向ける日々。常にぶすくれているように見える分厚いめもとも、無造作な髪形も、自分にとっては誇りであり、それがゆえにこれからも自分には苦難が続くであろうと考えていたが、ある意味で誇り高き敗北であるから、それでもいいと考えていた。
けれど、彼女の終わりは、そんな風にやさしいものじゃなかった。
◇
「ねぇマエバさん、転校生来るらしいよ」
相変わらずぶすくれているマエバを呼ぶ声。顔を上げると人当たりのよさそうな眼鏡の、中庸な同級生がそこにいる。
「興味ないよ、よしみ」
マエバを『親しげに』呼ぶのは彼女ぐらいのもので、そこに悪意は欠片もない。そもそも何かに対する悪意なんて生まれてこの方持ったことがなさそうなこの女が、マエバにとって唯一の友人だった。
「えーそう。イケメンかもじゃん」
「そういうノリ、私ヤダって。知ってるでしょ」
「『資本に回収される』から……ってやつ?」
「そう。資本だよ。商業主義とも言う。全部が商品になって売りに出されるの。テレビのアイドルなんてみんなそうでしょ。個人の尊厳を奪われて、表層だけ弄ばれて消えてく」
「大袈裟だよー。たかが転校生の話でしょ」
「大袈裟でもなんでも。いいの別に」
「マエバさんはサムライだなぁー」
そしてよしみは、指で四角を作って、そこにマエバの仏頂面をおさめている。
「映研のあんたにも、分かる話だと思ってたんだけど」
「えー。私ぃ」
「あんた、アート映画好きじゃない。フランスの。だから分かるでしょ」
「好きだけどさー。でも同じくらい、イケメンも好きだよ、私」
「……あんたは、そうかもね」
マエバは友人が羨ましいと思った。
そして自分がみじめに思えて顔をそむけた。
実のところ、きっとそれがあるべき形。
くだらないこの世界すべてから目を背けるのではなく、自分が生き抜くために、ひょうひょうと、うわっつらを飛び越えていく。そのうえで、自分の好きなものは守り抜く。きっと、そうあれればいい。
だけどマエバにはそういうものがない。自分の在り方を誇りに思ってはいても、ひどく脆いものだと分かっていた。
よしみのキャメラのように確固たる何かを自分に持ちたい。それこそが切望だった。
そしてその時は、突然やってくる。
◇
転校生。担任によるアナウンス。
扉を開けて入ってきた男の子。
「はじめまして! 僕の名前は
「ええと、十六夜くん。そういうのは」
「自作の詩と、それから、ヒシガタ様に捧げる歌が載ってます。すみません、学級委員長のかたはいらっしゃいますか? 配ってください! 委員長とはクラスの中心なのですから!」
「十六夜くん、いいから座りなさい」
なんと形容していいのかわからない独特な髪形と、異常なまでに透き通った瞳と、青白い肌。そして、枯れ枝のような四肢と……臭いわけではない、なにかのお香のような体臭。担任との悶着の末に、一番前の空いている座席にすわった、彼。
刺々しい視線が一斉に突き刺さっている。脅威を感じた野生動物たちのそれ。嫌悪し、侮蔑し、あるいは……好奇に満ちている。己の生存領域を脅かされたと感じた者たちが、一斉に排斥にかかり始めたのが分かる。小さくやりとりが聞こえる。ヤバい奴だよね絶対。変な宗教だよ。
しかし十六夜という少年はまるで意に介さず、異常に伸びた背筋で座ったまま、まっすぐ前を向いている。
これからきっと彼は、苦痛に満ちた学生時代を送ることだろう。それに気付く気配すらない。いったいどこまで、そのキャラクターを保つことが出来るのかどうか。
「……見つけた」
マエバは呟き、あやうく立ち上がりそうになった。
傍らでよしみがぎょっとする。
「マエバさん?」
「……私のミューズ」
◇
よしみはおかげさまで、とてもいい友人で、何度も一緒に遊んでいるけれど、一度だって家に呼んだことがない。なぜならそこはマエバにとっては、言ってしまえば地獄だからだ。
少なくともマエバはそう考えている。自分がこんな人間になったのはすべて家庭環境に還元される。だから帰宅をなるべく引き伸ばしたいけれど、学校に居たところでよしみ以外の全てが俗物に思えて仕方がないから、結局重い脚を引きずって帰ることになる。夕暮れ、暗い影が差す何の変哲もない一軒家にすべてが凝縮されている。
ただいまと玄関を開けたって返事がない。そのかわり、無限に続くと錯覚してしまう廊下の奥から、老人の呻き声が聞こえてくる。もうすぐそこに親族への罵倒が入り混じりはじめる。そしてにおってくる酒やらなにやら。ほかにもうんざりするような要素はきりがなくあり続ける。そのすべてを受け止めると、きっとマエバは死んでしまう。乗り越える力は、いまの彼女にはなかった。
背後から母の冷たい声。嘲笑の混ざった。
逃げるように自室にこもる。
これが十代の少女の部屋なのだろうかと、冷静になると思う。
本棚には前衛的な海外文学や古典文学、過激な思想をぶち上げた学者の書籍。いずれも少ない小遣いで古本屋にてかきあつめてきたもの。まだ足りない、もっと埋め尽くしたい。しかし俗世に産み落とされた中で必要なものがスペースの大部分を占拠している以上、収納スペースは限られている。彼女は弱く、それが悔しかった。
学習机の上に押しピンで貼り付けられたいくつものコピー用紙。インターネット上のウェブページを印刷したもの。似たような言葉が並んでいる。
――このたびは弊社の小説コンクール〇〇にご応募いただきありがとうございます。
――厳正な審査の結果、残念ながら……。
――またのご応募をお待ちしております。
何枚も、何枚も。
そのいずれも、自分を認めなかったもの。
怒りに変えることはしない。実力が足りないのは分かっている。
だけど諦めることも出来ず呪いになってへばりついている。
なにか、なにかがあるはずだった。
「……そうだ」
マエバは思いつく。
それを考えた瞬間、頬が紅潮して、ぽっと熱くなって、ドキドキする。
急激に、自らの内側にある綺麗で柔らかい部分が花開いたような。
自分には不釣り合いだと思っていたけれど、そうではなかった。やれるのだ。
――彼を。あの同級生を。
――プロデュースするのだ、十六夜蒼穹を。
――最高のミューズに。
――苦痛と悲嘆に満ちた、私の、わたしたちの象徴に。
◇
可及的速やかに、彼はいじめの対象になり始めた。
実に分かりやすかった。この世界のあらゆることが不条理として牙を剥いてくるなかで、秩序に歯向かうほど不良でもなく、そんな気力もない皆の前に現れた、謎のカルトっぽい何かを信奉しており、授業では率先して手を挙げて、奇妙なほど教科書的なイントネーションで正答し、終礼では誰しもがとっとと終わらせて帰りたいなかで、起きたことのいちいちを手を挙げて担任に報告、掃除の時間では同じ班の連中に細かく(笑顔で、まったくの良心から)口を出すような奴を、皆が好きになるはずもなかった。
統一された大義名分――あいつはみんなに、迷惑を、実害をかけている。
心理的苦痛は被害だ。コストに換算される。そんなことが許されるはずもない。
一部の男子たちは素手で、目立つかたちでやろうとしたが、すぐにブーイングを喰らった。それはいじめだ。自分たちのやろうとしていることは、そうではない。
だから十六夜蒼穹には、プリントが回ってこなくなったり、移動教室の際に嘘の教室を教えられたり、ドッキリを仕掛けられて大きな驚き声を動画に撮られたり、などがあった。それらすべては、『彼本人』の了承を得たうえで、ショート動画などで瞬く間に出回ることになった。
キャッチーな名前がついて、動作をグリーンバックで切り抜かれて、犬や猫と踊らされたり、鬱病の体験談の指人形がわりに使われるなどになった。
もちろんそのようなムーブメントに苦言を呈して近づかない者も大勢いたが、たいていは許容していた。
なぜなら十六夜蒼穹の家系が信奉するモノによって苦しめられてきた人々は、この町に、いや、この国に大勢いるからで――彼本人の言動の節々にも、『血筋』が滲んでいたからだ。離れる者はいても、味方する者など、居てはならなかった。
彼は当初、それでも笑っていた。
どこまでが許されるのか、どこからが彼にとっての怒りとなるのか、誰も分かっていなかったから、はじめはおそるおそるだった。野生動物に近づくカメラマンのように。
けれど、多くの場合で彼がうっすらと笑って取り合わず、その後の時間を、出来事を全く引きずらずに過ごしていることがわかると、もはや躊躇いはなくなった。
彼は笑っていた、笑っていた。
「いやだねぇ、ああいうの」
よしみは、クラスメイトに囲まれながら、『偶然』頭上から降ってきた黒板消しの粉を浴びている蒼穹を眺めながら言った。
彼女は、彼らに加わらない数少ない一員だった。
「品性がゲヒンだよ」
それも矛盾だと、マエバは思う。なぜなら。
「よしみ。あんたの好きな映画監督。この前炎上してた。差別発言で」
「どうでもよくない?」
「……そっか」
ちなみにその映画監督の作る映画は、貧しい市民を主役にしている者が多かったと記憶している。
マエバは決意する。
自分がやるしかない。まだ、たりない。
◇
蒼穹が尻尾を出すのは早かった。
はじめ、何かにとりつかれているかのような笑みを崩さなかった彼も、やがて表情が引きつり始めた。それは靴を隠されたり、渡されるプリントが水浸しになるなどの実害を被るようになったからだ。彼の家庭はかなり厳格で、明確な規律のもとに成り立っていると、クラスメイトの誰かによる調査で分かっていた。
彼が弱っている顔をしなければ意味がない。溜飲が下がらない。
よって、蒼穹が男子トイレでひとりの時に叫んでいたり、体格のいい運動部の連中に呼ばれた時に怯えた表情をする段になって、皆、勝利を確信するようになっていた。
よしみは、加わりはしなかったが、止めもしなかった。
だが、マエバにとってそれは最も卑劣な態度であったから。彼女は行動に移した。
まずは、彼をさらに追い詰める手助けをすることから始めた。
靴箱に他の生徒の靴を入れて罪をかぶせたり。あるいはもっとシンプルに、神経を逆撫でするような落書きに彼の名前としての署名を施したり。どれだけ筆跡が違っていてもあまり関係はなかった。マエバにはクラスメイトに免罪符を発行する才能があった。
それでいて、彼らには決して加わろうとしなかった。
――『皆』には入らない。自分は、あくまで、孤独のなかにいる。でなければ、自分は自分でなくなってしまう。
なら、どこにつくのか。簡単な話だ。
夕方、蒼穹は、校舎の裏でひとり、しゃがみこんでいた。
そこに近寄って、声をかける。
「ねぇ」
十六夜蒼穹はびくりと顔を上げた。
やせっぽちの顔に、もはやかつてのような異様な輝きは宿っていない。
そこにいるのは、どこまでも弱々しく卑屈で、神経を逆撫でるような笑みを浮かべる陰気な少年でしかなかった。
「な、なにかな。ええと……」
「前場だけど。覚えてないの」
「ご、ごめんなさい……」
そんな彼にハンカチを渡す。彼に自分で『落とさせた』ものだ。
彼は震えて、また何かをやってしまったのか、それによってどんな仕打ちを受けるのかを考えたようだったが、自分のものであると気付くと、卑屈な笑みが戻った。
ハンカチに手が伸びる。マエバは簡単には渡さない。
「前場さん、返してほしいな……」
「あなた。悔しくないの」
「えっ」
「私は悔しいよ。あなたがそんな目に遭ってるの」
蒼穹は虚を突かれた表情になった。
そんなことを言われることなど想像していなかったにちがいない。
やがて、笑みの性質が変わる。試すようなものから、こちらの領域におそるおそるながらも、無遠慮に入り込んでくる、粘着質のそれだった。
……自分を、女として見ている。こいつは。
マエバのなかで、なにかがうずいた。
「じゃ、じゃあ……」
「勘違いしないで。あんたの味方なんて、してやらないから。じゃあね」
それだけ言って、さいごに一回後ろを向いて、離れた。
蒼穹は取り残される。
うまくいった。
……うまくいった。
マエバは身体の火照りを止められなかった。
帰路についてもその感覚は続く。
玄関を開けると昨日よりも増したいやなにおい。振り払うように自分の部屋。
彼女の愛するものすべてに囲まれたなかでほてりをしずめる。
きっと世界はどんどんひどくなっていくだろうけれど、構わない。
――私と彼は、孤独と痛みで、平行線に繋がっているのだ。
◇
蒼穹の視線は、マエバを探し求めるようになっていた。
あの日、自分が打ち込んだ楔は実に効果的だったとほくそ笑む。
彼への仕打ちはひどくなっていくいっぽうだけれど、学校側が何か動く様子もなかった。世界の理は相変わらずくそったれで、それがマエバを安心させる。
ああ、彼も私も、『呑み込まれず』に、済む――。
蒼穹に会う機会が、自然と増えていく。
多くは放課後。彼が傷つき疲弊しているその瞬間。
夕暮れの強い光線が降りかかる階段の踊り場などで。
彼はもう、かつての『異分子』として排斥される要因だった、あの快活さを完全に失っており、それでもなお、自分の属性である『思想』と『家柄』にしがみついているようだった。
「やあ、ヒシガタ様は僕に過酷な試練を、だけど必ず乗り越えて、みんなに伝えます。この国には本当によくないものが蔓延して……」
「うるさいよ」
「ひっ……」
「そっちのあなたは、好きじゃない」
「じゃ、じゃあ、なんの僕が、好き……なのかな」
「答えたくない」
マエバは感じた。
沈黙ゆえに――蒼穹がさらに、自分に傾いているのを。
彼の孤独ゆえの美しさが、その横顔が輝くのが、楽しみでならなかった。
月日が経過していく。
彼はもはや、自分なしではすぐにでも屋上から飛び降りてしまうであろう状態になっていた。その弁舌は支離滅裂になり、余裕をなくし、快活さは自分の主張を押し通したい傲慢さという名の本性へと変貌し。清潔さが卑屈さの裏返しであったことがあらわになり。
男子たちからは殴られ、女子たちからは、彼が必要以上に情欲的なものを回避しようとしているさまが却って気味悪がられて。
結果としてそこには、奇妙な髪形をしてやせ形で、肌だけが生白い宇宙人のような男がひとり居る。
彼は、自分の味方がもはやマエバひとりだけだと思っているようだった。
彼は、マエバに対して、なんらかの名前の付く欲求未満のなにかを持て余していても、結局それを伝えることで関係が破綻してしまうことをおそれて、弱々しい笑みを浮かべながら反応を伺うことしかできていなかった。
それがマエバには愉快でならなかった。
なにひとつ満たされていない彼が、美しくてならなかった。
「つかぬことを聞くけどさ。二人は付き合っているの?」
「……はぁ?」
奇妙なのは、そこに最近よしみも加わっていることだ。
彼女は相変わらずノンポリ風の振る舞いで、マエバと蒼穹のふたりを構図の中におさめてカメラを回す。
そう、ただ映しているだけ。マエバにとっての蒼穹がどういう存在か、彼女は考えもしない。蒼穹がひどい仕打ちを受けていることも、マエバがなぜ彼に接触しているのかも、よしみには関係がないようだった。
「私はただ、いい画があれば撮るだけだよ」
――あんたにとってのいい画って、なんなわけ。
――あんたの目を通す時点でバイアスかかってんだよ。
――性加害者の映画が、好きなくせに。
蒼穹を川辺に誘った。すると彼はいきなり駆け出して、河原から川の中に突っ込んでいって、靴がびしょびしょになっている。
そのきらきらした光の断片を受けながら、彼は笑っている。
そして、その光景を見て、マエバは、自分が少し顔をほころばせていることに気付く。
――駄目だ。
――この時間に、満たされたものを感じてはいけない。
自分にとっての蒼穹が、ここまで長い時間を一緒に過ごしたはじめての男子が、どのような存在なのか、見直す必要がある。なにか手を打たなければ。
……日が暮れた。
空が藍色になっている。
「いやあ、ごめんね前場さん。ついはしゃぎすぎちゃって……」
「うざ」
マエバは、蒼穹の頬を叩いた。
呆然とする少年の顔に影が差す。
「……え?」
これは必要なこと。必要な痛み。
――私とあなたは、そんなんじゃ駄目なの。
――そんな普通に、おさまっちゃいけないの。だから許して。
背後ですすり泣く声が聞こえるのをよそに、マエバは一人帰っていく。追いかけもしてこない。そんなことが出来る奴なら、最初から引き入れてはいないのだが。
「……」
よしみはそんな二人を、冷静にファインダーのなかにおさめている。
破綻は近かった。
マエバが自分の部屋に戻ると、自分を取り囲む本棚やポスターのすべてをいつもの習慣として見回すのだが、今日はそこで、愕然としてしまった。
……満たされないのだ。
顕示的消費と違う、明確に自分だけのための消費。糧とするための消費。同学年の女子たちが気味悪がって決して手を出さないであろう、後ろ暗い歴史と差別的言説にまみれた、決して日に当たることのない作品たち。その中に自分を落とし込むことで、自分の孤独が意味のあるものだと実感していた日々。
だのに、満たされなかった。
棚の端にはほこりがめだって、ポスターは剥がれかけていて。それで、詰まっている書籍の数々は、ひどくよれていて焼けている。いつもなら、寝物語として、毎日一冊は手に取っていたのに。
なんだかひどく疲れていて、そんな気にならなかった。
――今日はたまたまだ。純粋な肉体的な疲れにほかならない……。
◇
期待は裏切られる。
彼女は自室のすべてをつまらなく感じるようになっていた。
何を見ても、何を読んでも目が滑ってしまう。まるで気力がわかなかった。
それは必要なのにそれができないということではなく、純粋に『必要性を感じない』からだった。
自分の築き上げてきたものが、崩れていく。なんのために、この牙城を作ってきたのか。現実に負けないためじゃなかったのか。ひとりでも寂しくないように、じゃなかったのか。だのに、このざまはいったい……。
マエバの脳裏に、蒼穹の姿がうつった。
あの日、夕暮れの河辺での屈託のない笑顔。自分のことを純粋に信じている者の。
一瞬時間が静止して、それを柔らかく受け止めていた自分。
悪くない、とさえ、感じてしまっていた自分。
「……ちがう」
棚を揺さぶる。
文庫本が、ぱさぱさと軽い音を立てて、いとも簡単に落ちていく。
ページの上部に、埃がたまっていることに気付く。こんなにも、読んでいなかったのか。並べるだけで、満足して。
「ちがう。ちがう、違うっ……こんなんじゃない、私が求めたのはっ……」
せめて、部屋で暴れ狂って、下の階から怒号でも飛んでくれれば、彼女も冷静になれたが、そうはならなかった。
あかりもつけない部屋でひとり、道化芝居をやっているだけだった。7
「私が求めたのはっ……そんなものじゃないっ!」
完全に気力が尽きて、片づけもしないままベッドに身を投げ出したとき。
彼女の脳裏によぎったのは、幼いころのおぞましい記憶だった。
――自分の母親であったはずの女が、丸い背中を見せている。
――彼女は画面を見て薄笑いを浮かべながら、なにかに投資をしている。ひたすらに。
「……終わらせよう」
マエバは軽率にもそう言った。
それは実現される。最も望まないカタチで。
◇
あくる日、呼び出した蒼穹に、マエバはすべてを打ち明けた。
「……え」
打ちひしがれた顔。信じていたすべてに裏切られた。
もう彼のなかで、彼の信じるカミサマの存在は限りなく小さくなっていただろうから、マエバの告白は実に効果的だった。
「そんな……」
なおも彼はこちらに縋りつこうとしてきたので、マエバは次の作戦へとうつった。
「きゃあああああああああっ!」
つんざくような声。自分でそんなものが出せるのかと驚きだった。
ひどいカリカチュアのような、『甲高い女の悲鳴』。
彼の手を引っ張って倒れ込み、制服を瞬時に着崩して、スカートをずらした。
聞きつけた男たち――女は少ない――の前での、その光景。
顔を覆って涙を流す、演技をする、自分。
蒼穹は訳が分からず何も言えない。
男たちが向かってきて、彼を引きはがし、向こう側へと放逐していく。
音が聞こえない。サイレントフィルムのような。マエバの愛したドイツの戦前の前衛映画のように。知らない女たちが自分を抱き起し、訳知り顔で同情する。別室に呼び出されて、何人かの教師に『事実――もう一つの事実――』を伝えた。
あらゆる矛盾が詰め込まれていたはずだけれど、大人たちは速やかに納得した。
そうして、蒼穹は、いよいよ段階的な排斥に巻き込まれることになった。
すべては予定通りのはずだった。
しかし、マエバにとっては相変わらず満たさない日々が続いていた。
なぜ、なぜ。
あんな、したくもない芝居をして。結果的にあいつを再び孤独にしてやったのに。
それで同時に自分も傷ついたことで、尊厳だって守れたというのに。
どうしてこんなにも、不満がたまっていくの。
わからない、わからない。
家に帰ると、いやなにおいと罵倒が聞こえてくる。
自分がまだ十代のガキだと思わされる。
鏡を見ると、そこにいるのは陰気で鼻の大きく、歯が不ぞろいな女。なにひとつとして格好良くはない。割ってやろうかと振り上げられた拳は、その後の痛みを想像して、ついに何も壊すことはなかった。
かつて幼いころ、『いやな感じ』を覚えたときにそうしたように、彼女はひとり、部屋で膝を抱えて泣いた。
泣くと彼女は満たされた。
悲しみは、誰にも依存することなく発生する感情だったからだ。
大丈夫、大丈夫……自分は大丈夫だ。
「最低だよ、マエバ」
ある日、自分を見るよしみの目がひどく冷たいことに気付いた。
そっと下から覗き込むようにすると、距離を取られて、そう言われた。
頭が、白くなる。
どうしてだろう。なぜよしみは、そんなことを言うのだろう。
自分よりもずっと軽く、何にも考えていないような奴に。
そんな奴が、私に何を言えるのだろう。
……じゃあ、どうして自分は今、確かに傷ついたのだろう。
わからない。そのわからなさが、マエバに口を開かせた。
「なんでそんなこと言うの。あんたには関係ないじゃない」
「そう。関係ないよ。だけど、『元』親友として、言わないわけにはいかないでしょ。あんなこと、十六夜くんにしておいて」
「あんなこと? あいつは私を押し倒して――」
「やらせでしょ、あれ。見たんだから」
彼女はカメラを構えた。切っ先を突き付けるようにして。
「……あんた、まさか」
「見たし、聞いてたよ。もっと早く、気付いてやるべきだったね。それは謝る、マエバ」
なんと傲慢なのだろう。
レイシストのくせに。
美人の癖に。彼氏がいるくせに。
そのくせに、映画なんて好きで。
なぜ、色んな奴から好かれる奴が、映画を撮ろうとするのだろう。
映画は、あらゆるカルチャーは、あんたらのものじゃない。
私だ。私だけのものだ。
「……最低なのはあんただ、よしみ! あんたは、そう、見てるだけだった。止めればよかったんだ……はは、そうだ、偽善者、偽善者よあんたは。カメラ越しでしか現実を見てないんだもの。あんただって、あいつやあいつらとなんにも変わらない、最低の――」
「……そこまでだと、思ってなかったよ」
よしみは冷静だった。自分の言葉で、まるで心が動かされていないようだった。
もう動くことはないと宣言しているようにも見える。
既に、マエバにとっての友人が誰一人としていなくなったのは確かだった。
ならばあとは、できるだけみじめにならないよう、自分を守ることだけ……。
「マエバ。そんな風に言って、誰かのために、なにかができた? やってないじゃない、何も。それでようやく元気になったと思ったら、やったのは、同級生の男の子を騙すことだった。そんな風だと思ってなかった。マエバ、優しいやつだとおもってた」
「浅い見方をすんなっ! カメラでしか現実を見ないから、そんな風にしか、物事を理解できないんだ、あんたはっ……」
「カメラ越しでも、現実は現実だよ。決して誰にだって変えられない」
「嘘だ、カメラを通して、フィルムになって。それで何万人何億人に、ゆがめられて薄められて配られて。そんなのの、どこが現実なのさ。どうしようもない世界の、どうしようもないクズどもが喜ぶだけじゃない! あんたは、それでいいの?」
「構わない」
「どうしてっ……」
「私が、負ける気がないから。だったら、何人かが。誰か一人でもいい。私に気付いたなら、きっとだいじょうぶだっておもうから。だから、自信をもって言える……あなたは、最低のことをしている」
「……だったら何。私を裁くっていうの。そんな権利、あんたにあるわけがない……」
「そう。ないよ、自分には。だから……ただ、絶交するだけ」
「あ、ああ……」
「じゃあね。二度と会うことはないけど。死なないでね」
最後の言葉は、呪いだった。
去っていくよしみを、マエバは止められなかった。
◇
間もなく、すべてマエバが仕組んだことなのだと露呈した。
誰が公表したのだろう。よしみであればまだマシだった。実際はもっと筋の通らない経緯で情報が漏洩したのだろう。それが現実というものだからだ。
マエバは別に、他のクラスメイト達に報復を受けて、蒼穹にかわっていじめの対象になったりはしなかった。
かわりに、学校側に呼び出された。
それから淡々と処分が告げられて、付け焼刃のような教訓を受けた。
そこで大々的に反抗さえ出来ていればよかったが、気付いた時には自分は、隣にいる大人と一緒に頭を下げていた。
灰色の部屋。人工の照明。肌を突き刺すクーラーの硬質の冷気。
この瞬間、マエバは、何もかもに敗北し、抗い続けた巨大な何かに呑み込まれたことを自覚した。
◇
部屋に引きこもってどれくらい経過しただろう。
ある種の微生物がそうするように、彼女は自分の世界を極力小さく保つことで、最低限の生存を確保していた。
しかし、それで自我が消えるわけでもなく、日々は苦しみのなかにあった。
ならばどうするべきなのだろう。このまま昼も夜もない世界で、寝間着姿のまま一生を過ごすのだろうか……。
痛む頭で顔を上げると、崩れた本棚のはざまに、古い映画のポスターが落ちていた。
拾い上げる。
長い年月と莫大な予算を使って撮影されたものの、一般理論としてのストーリーラインがイビツで難解で、あまりにも監督のイデオロギーが出過ぎているとして評価が散々になった海外の戦争映画。一部のモノ好きにしか愛されていない劇物。
彼女はこれが好きだった。女性蔑視と人種差別と帝国主義が、血と鉄のなかで平然と語られるその映画が好きだった。誰にも好かれない怪物。孤独の怪物。
――そうか。それだ。
血と鉄。そのものにはなれないけれど、インスパイアはされたっていい。
「……みつけた」
マエバは薄暗い笑みを浮かべる。
そうと決まれば実行あるのみだ。自分は孤独なまま、誰にも負けないまま立っていける。それを実現するための唯一の手段。止める者はもう居ない。随分前から連絡先も消えている……きっとあいつは後悔する。私を見捨てることを。
それでいい。私はマエバ。不細工なマエバのままで、このくそったれの資本主義社会からおさらばできる。
彼女は立ち上がり、自室を出る。
台所の包丁置きに向かう、慣れ親しんだ狭い廊下が、今は祝福を授けるかのように、光り輝いて見えていた。
こじらせマエバのオワるとき。 緑茶 @wangd1
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