第8章

第45話 既読


朝。

カーテンから日差しが差し込む。


目が覚めた瞬間、昨日のことがまだ胸の奥に残っているのを感じた。

あさぎさんとのましろの声。仕草。あの…雰囲気。

……そして、最後に手を振ったときの空気の温度まで。


意識がはっきりしてくると、それらがじんわりとよみがえってきた。

昨夜は、久しぶりに安心して眠れた気がする。

──たぶん、あの夜のやりとりのおかげだ。


カーテン越しの朝日が、いつもよりやわらかく感じた。

手足を伸ばして、ゆっくりと布団から抜け出す。

不思議だ。ほんの少しだけ、身体が軽い。


何も考えずにスマホに手を伸ばす。

画面をつけた瞬間、通知のアイコンがひとつ。


──ましろ。


胸が、少し跳ねた。

タップすると、たったひとことだけが表示される。


「おはよう」


時刻を見る。今朝の、早い時間だった。

まだ寝ていたので気づかなかったようだ。


ほんのわずか、指が迷ってから返信を打つ。


「おはよう 今、学校行くところだから」


数秒もしないうちに既読がつく。


そして、数十秒経った後。


「わかった」


それだけが来た。

でも、それが来ることは分かっていた。

そんな気がしていて、スマホの画面をじっと見ていた。

そして、ぽん、とスタンプが届いた。


────丸まって眠る猫。


ましろらしい、静かで、柔らかな返事だった。

子供っぽい外見に似合わず、大人びた距離感。

あの子のそういうところは、やっぱり楽で……心地いい。


それを教えたのは、あさぎさんなのかもしれないけれど、

それを自分に向けてくれる、それだけで嬉しい気持ちになった。


──姉妹ふたりとも、自分には不思議なくらい、あたたかい存在だ。


制服に着替えて、髪を整える。

鏡の前で自分の顔を見ると、なんとなくいつもより柔らかい表情をしている気がして、そっと目を逸らした。


朝食を軽く食べ、両親に声をかける。

そして妹を連れて、「行ってきます」


ドアを開けた先の空気は、いつもよりほんの少しだけ、澄んでいるように感じた。


──今日もまた、会えるんだ。

その気持ちが、まだ名前のないまま、胸の中にあった。




今日は、自転車を押して駅まで歩くことにした。

理由は単純。

あの子の家…少し遠くにある神社から帰るまでの時間を、できるだけ短くしておきたかった。

今日はましろと、初めての特訓がある。

それに……今日から、ましろの家で一緒に勉強する予定だ。

だったら、少しでも長い時間を確保したかった。


途中、いつものように妹に絡まれた。


「お兄ちゃんなんで自転車もってきてんの?」


「べつにいいだろ」


「ふーん」


短い会話だけで、何かを察したらしい。

『はいはい、また"勉強"ね』──そんな顔をしている。


「だったら押さずに漕いでいけばいいのに」


────裏を返せば、早く行け、ってことだろうか。

…いちいち逆なでするようなことを言うやつだ。


けれど、それはなんか違う。

そうやって行くのは、違う気がした。


「…さびしいだろ、それは。」


ぽつりと零した自分の声に、妹はきょとんとした顔をした。


それに……ましろのために、今までの人たちを急に置き去りにするのは──

きっと、違う。

そんな気がしていた。



「妹思いの、やさしいお兄ちゃんですね」


「うるせっ」


…ほんとに、面倒な奴だと思う。

でも、こうして絡んでくるのは、

少しだけ、心配してくれているのかもしれない。


…そう思いかけていたが…


「今日の夜もお楽しみか~」


「ちゃんと勉強しに行ってるんだって」


「…勉強の意味で言ったんだけど。何言ってんの?」


いや、違う。

こいつ、やっぱり何も考えていない。

心配なんてしていない。


自然と歩くスピードが速くなっていた。

…ほんとに、妹ってやつは…

イタズラな言動の芯にも優しさがあるましろを見習ってほしい。

妹が駆け足でついてきた。




学校は────特に何もなかった。

授業中、ぼんやりしていたことだけは、自覚している。

黒板の文字は視界に入っていたはずだが、あまり頭に残っていなかった。


昼休み、久保田に言われた。


「お前…最近、なんか浮かれてね?」


的を得た質問は、意味がわからないと誤魔化した。

でも、自覚はあった。

いつの日からか、ずっと。


放課後の部活は短縮だった。

「自由メニュー」と言われたので、軽いランニングだけして早めに切り上げる。

理由は…自分でもよくわかっていた。


部室で荷物を片付けながら、スマホを取り出す。

ましろにメッセージを送った。


「今、帰ってる。そっちは?」


…メッセージの既読はすぐにはつかなかった。

学校を出た通学路。

駅のホーム。

揺られる電車の中。


その間ずっと、ちらちらと画面を見続けていた。

通知は来ない。

それでも、何度もホームボタンを押してしまう。


……最寄り駅が近づいて、車窓から差し込む夕陽が、

海にきらきらと反射しているのが見えたころだった。


ぽん、と。

ようやく返事が届いた。


「もうすぐで着く」


シンプルなメッセージだったが、

それだけで、ほんの少しだけ指先が温かくなるのを感じた。


18時前。

最寄り駅に着く。


──思い出す。

昨日の、あのやりとりを。


(…"あの服"、着てくるって言ってたな)


心の奥で、その記憶が小さく灯る。


そのまま改札を抜ける。

どこか、胸のあたりがざわつく。

落ち着かないことに、自分でも気づいていた。


──別に、期待してるわけじゃない。


そう思いながらも、少し思いを馳せている自分が居た。

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