第44話:通知
家に帰ると、玄関で妹が出迎えてくれた。
上履きを脱いでいると、じろりとこちらを見て、ふっと口角を上げる。
「……まーた鼻の下伸ばして帰ってきて。」
「えっ、何?そんなことないって。」
「ふーん?じゃあ、鏡見てごらんよ。」
そう言って鼻の下をトントンと叩くジェスチャーをしてどこかに行く妹。
いつもの軽口。
だけど、どこか妙に刺さるのは、自分でもちょっと心当たりがあるからかもしれない。
部屋に戻って宿題を済ませる。
夕食では、母が「今日は早かったのね」と声をかけてくれた。
父も珍しく早めに帰宅していて、他愛のない話を交わす。
なんてことのない食卓。
でも、ふとした瞬間に、両親の表情が少しだけ柔らかくなっているのに気づいた。
(…なんか俺も…ちょっとだけ、明るくなってるのかもな)
ほんのわずかな変化。
それは、誰かとしっかり話して、少し先のことを見据えられるようになったからかもしれない。
お風呂を済ませて、自室に戻る。
寝間着の姿でベッドに体を投げ出した。
天井を見つめたまま、しばらくぼんやりと時間が流れる。
そのとき——
『ピロン』
静かな部屋に、スマホの通知音が小さく響いた。
(こんな時間に?誰だ…?)
画面を覗くと、あさぎさんからのメッセージだった。
開いてみると、そこには控えめなスタンプと、短いひと言が添えられていた。
『今日はありがとう。私もましろも楽しかったよ。これからもよろしくね。』
少し肩の力が抜ける。
こちらも礼を込めて、丁寧に返信を打つ。
『こちらこそ、ありがとうございました。いろいろ助かりました。』
メッセージを送った後、少し迷って、最後にスタンプを1つ送った。
気取らず、でもちゃんと気持ちが届くような、温かみのあるものを選ぶ。
文字を交わすだけのやりとりなのに、ふと、不思議な気持ちになる。
————もし、あさぎさんに会ったことがなかったら。
ただメッセージだけを見ていたら、きっと"普通の人"だと思っただろう。
……いや、実際に会っていたとしても、もしあの人が黙っていたら、きっと自分も錯覚してしまっていた。
その静かで上品な佇まいと、整いすぎた顔立ち。
ましろと同じで、きっと近くにいたとしても、話しかける勇気は持てなかったかもしれない。
でも、あの静かな目の奥には————
何十年、いや、もしかすると何百年という時間と覚悟が宿っている。
それを、自分は知っている。
そして、それを知った自分もまた————これから変わっていくのだろう。
画面が再び明るくなり、あさぎさんからスタンプの返信が届く。
そのたったひとつのやりとりが、妙に心を落ち着けてくれた。
スマホの画面がふっと暗くなる。
そのまま手のひらに乗せて、そっと目を閉じる。
今日、出会えたもの。見えたもの。
静かに思い返しながら、眠りの気配に身を預けていく。
…明日も、また日常が続いていく。
けれど、そこには昨日とは違う"重み"と"あたたかさ"が、きっと混ざっている。
——そんな気がした。
と、ぼんやり考えていた矢先——
またしてもスマホの通知音が鳴った。
眠気を振り払うようにごろりと体勢を変え、再び画面をのぞき込む。
表示されたのは、見覚えのないユーザーからの友達申請だった。
アイコンはデフォルトのまま。名前も初期設定。
プロフィールも空白で、何の情報もない。
——けれど、直感でわかった。
ましろだ。
申請を許可すると、間髪入れずにスタンプがひとつ、ぴょこんと届く。
変な猫のイラストが、じっとこちらを見上げていた。
ましろだろこれ。
試しにチャットで「ましろ?」と送ってみる。
返事はすぐには来ない。
数分の静けさがあってから、ようやく——
『はい』
とだけ書かれた、簡素なスタンプがぽつりと届いた。
やっぱりましろだ。
おそらく、あさぎさんに聞きながらスマホを操作しているのだろう。
送ってくるタイミングや言葉の少なさから、それが手に取るように伝わってくる。
しばらく返信がなかったので、「今日はありがとうね」とだけ、感謝のメッセージを送った。
その直後だった。
脈絡もなく、自撮りの写真が一枚、アップロードされる。
画面の中には、スマホを凝視するましろの顔。
そしてその後ろには、何かを教えているらしいあさぎの姿が映り込んでいた。
…狐のように目を細めて、口元にはいたずらっぽい笑み。
明らかに、確信犯だった。
……やっぱり。
次のメッセージには、たった一言。
『だまされた』
文字にしなくても、ましろのふくれっ面が目に浮かぶようだった。
送られてきた写真を、もう一度見返す。
ましろの顔は、真剣そのもの。
スマホを見つめるその眼差しには、
初めての世界に触れる子どものような緊張と、それを上回る強い好奇心が宿っていた。
そして、爛々としている瞳。
その輝きには、まるで吸い込まれそうな神秘さがある。
写真で切り取られた一瞬なのに、その存在感は少しも色褪せていなかった。
……それにしても。
写真の隅には、しっかりと猫耳と狐耳が写り込んでいる。
それもくっきりと、まるで普通の髪飾りでもあるかのように自然に。
……写真なのに? しかもスマホで撮った、ただのデジタルデータなのに?
この耳たちは、いったい外からはどう見えているのだろう。
少なくとも、神社で会った人たちは、あさぎを"お狐様"として普通に認識していた。
ましろも、「おぬしは特別じゃから」と言っていたが、
見る者の「認識」によって、可視化の有無が決まっている……?
じゃあ、この写真は他の人が見たらどうなるのだろうか…
(……今度、ましろに会ったときにでも、聞いてみよう)
そんなことをぼんやり考えていた、その時だった。
唐突に、ビデオ通話の着信音が鳴り響いた。
「——わっ……!」
思わずスマホを取り落としそうになる。
心臓が一瞬だけ跳ねたあと、ため息まじりに持ち直す。
どうせまた、あさぎが隣で「これも試してみよう」とか言ってるに違いない。
……仕方ない。出てやるか。
通話ボタンに指を添えて、タップする。
画面に映ったのは、スマホをじっと見つめるましろの顔。
少しきょとんとしていて、でもどこか期待に満ちていた。
視線をあちこちにさまよわせたあと、隣にいるあさぎの方へ顔を向ける。
「これは…なんじゃ…?」
「これはね、ビデオ通話って言って、音声と映像を一緒に送って会話できるんだよ」
「おんせい……?えいぞう……? もうちょっと分かりやすく言ってくれんかの…」
そうか。こっちのビデオはまだオフにしていたんだった。
主人公は体勢を整え、スマホを壁の方に向ける。
ほんの少しだけ前髪を整えてから、ビデオをオンにした。
画面が切り替わった瞬間、ましろの目がぱちくりと見開かれる。
「うわっ!?ゆ、悠!?そこにおるんか!?」
「おっ、悠くーん♡見えてるかい?」
「……ああ、見えてるよ。ましろも聞こえてる?」
…あさぎの調子はさておき、軽く笑いながら、手を振って声をかける。
スマホ越しに話すのは、なんだか妙に緊張する。
ほんの少しだけ、声のトーンを探りながら言葉を選んだ。
突然の登場に驚いたのか、ましろは一瞬、言葉を失ったように口を開けたまま固まる。
それから、どこか恥ずかしそうに答えた。
「おぉ……う、うん。聞こえとるよ!ど、どうじゃ、わしの声も聞こえとるか…?」
「うん。ちゃんと聞こえてるよ。」
「おお…本当にこの箱で悠と話せとる…すごいものじゃなぁ…」
はじめてスマホを触るのって、こんなに新鮮なんだな……
妙に感心してしまう。
「ましろもスマホデビューだね。これからよろしくね。」
「すまほ、な。……うん、なんとか使いこなしてみるわい…」
そう言った直後、画面の向こうで姉妹がなにやら言い合いを始めた。
表情や身振りから察するに、またあさぎがちょっかいをかけたのだろう。
……はたから見る分には結構面白い。
やがて、ましろがちょっとムキになった顔でスマホに向き直ると、
画面がふっと暗くなった。
どうやら、通話を切ったらしい。
何を話していたのか、音声が混ざっていてよく聞き取れなかったけど————
なんだか、ましろが赤くなってたような気がする。
少しだけ間をおいて、ポンとメッセージが届く。
『ありがとう』
たった一言。
でも、その文字がちょっとだけ大きく見えた。
軽くスタンプで返しておいた。
すると、間髪入れず——いや、まるで待っていたかのように、次々とスタンプが飛んでくる。
(…子どもみたいなことを。)
「やめてね」とメッセージを送ると、すぐに『てへっ』みたいなスタンプで返してくる。
——ましろも、だいぶ慣れてきたな。
そのまま、「今日は寝るね おやすみ」と送信。
少しだけ間があってから——
『おやすみ』
短く、文字だけの返事。
ただそれだけなのに、なんだか胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
スマホの画面の向こうから届いた、小さな"つながり"。
今の自分にとって、それがなにより嬉しかった。
……明日からは特訓だ。
学生として勉強をこなし、部活で体を鍛え、
さらには特訓で魂までも鍛えて、世界と姉妹を救う——
改めて考えると、とんでもないことになってきた。
でも——あの二人となら。
ましろと、あさぎさんがいれば。
きっと、大丈夫だろう。
そんなことを思い返していると、
気づけば、いつの間にか眠りについていた。
(第7章 完)
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