糸の見える国
皆神わいら
第1話 運命なんて
——その国では、小指の先から運命の糸が見えるらしい。
まもなくの搭乗開始を知らせるアナウンスが響く。ミサキは膝の上のタブレットを閉じ、そっと息を吐いた。
手荷物は最小限。背中にはバックパック、スマートフォンは数日前に解約した。
連絡がつかないことに不安を抱く声もあったが、不思議とミサキは落ち着いていた。
「身軽って、こういうことかもね」
誰に言うでもなく呟く。静かな決意だけが、足元を支えていた。
ミサキは、これから「運命の糸が見える」という国へ旅立つ。
毎日同じ時間に家を出て、同じ車両の同じ位置に立ち、同じビルに入り、同じコンビニで昼食を買う。そんな暮らしに、なんの異議も挟まずにいた。
午後3時を過ぎると、時計の針が呪われたように鈍くなる。時間だけが容赦なく残される場所。
それでも間違わずにこなすことだけを求められ、工夫も、声も、いつしか自分の中に沈んでいった。
提案した効率化は無視され、やりすぎれば咎められた。いつの間にか、必要以上の成果を出すことすら控えるようになっていた。
結婚さえすれば、変わり映えのしない時間も、灰色の毎日も、すべてが彩りに満ちていく。そう信じていた。
だから、彼と会うその時間のために、ただ黙々と仕事をこなしていた。 報われなくてもいい。ただその先に、確かな日常が待っているのなら。
そんなミサキに、ある日、彼は言った。
「結婚は考えられない」
言葉の意味が、理解できなかった。耳には届いたのに、心には届いてこなかった。
返すべき言葉も、感情の名前も見つからない。理由を尋ねようとしたが、彼は要件だけを告げて、ミサキの反応には目もくれず、まるで役目を終えたかのように立ち去った。
——人の心も、こんなふうに凍りつくのだろうか。
泣けたら楽だったかもしれない。叫んだり、壊したり、感情に飲み込まれてしまえたなら、それでよかったかもしれない。
けれど、心はまるでフリーズしたまま、何ひとつ表に出てこなかった。
「私のなにがいけなかったのだろう。どこで間違えたのだろう」
答えのない問いばかりが、いつまでも頭の中で回っていた。沈黙を保ったままの体と、嵐のように暴れ続ける思考。
それでも、彼というピースが抜け落ちても、日々は変わらず始まり、終わり、また繰り返す。 世界は変わらなかった。
灰色の毎日は、それ以上沈むことも許されず、ただ淡々と続いていった。
季節が、ひとつまたいだことにすら気づけずにいた。
◇◇◇
「カーディガンにするか、パーカーがいいかなあ」
ずらりと並ぶハンガーを指先で揺らしながら、ミサキはぽつりと言った。仕事帰りに立ち寄った駅近くの商業施設。
季節の変わり目に何かひとつ、と思い立ったものの、これといった目的があったわけではない。
「似たようなものしかないなあ」
呟きながら、既に何軒目になるかわからないショップを出た。
どれでもいいわけでもないのだと、ミサキは何軒も何軒もショップを回っていた。
お気に入りだったセレクトショップは、ビルの再開発で姿を消した。
海外で仕入れてきたワンピース、駆け出しのデザイナーのブラウス、手作業でしか作れない細かな細工の小物たち。
あの店でだけ出会える服に心が踊った日々を、ふと懐かしく思い出す。
気がつけば、手持ちのワードローブはどこでも買える、無難で無名な服で埋まっていた。
買わない買い物ほど疲れるものはない。
ベンチで休憩でもするかと、フロアの端に差しかかると、目に入ったのは見慣れぬ旅行代理店のツアーデスクだった。
広げられたパンフレットの山。そのひとつに、異国の山々を背景に、鮮やかな糸の束を手にした人々の写真があった。
ミサキの足が、ふと止まった。
「伝説の森で、運命の糸とめぐり逢う7日間、ねえ……」
その文字を目でなぞったとき、ミサキはどこかむず痒さを覚えた。 パンフレットの中央には、深い緑の森と石造りの遺跡、そして複雑な文様の織物が静かにレイアウトされている。
「セドアニア?」
ふと漏れた声に、すぐさま明るい返事が重なった。
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