第2話 “ない国”との邂逅

「セドアニアツアーをお考えですか?」


誰かに話しかけられた、と気づくまでに半拍。


パンフレットを取った、ほんのその一瞬を見逃さずに差し込んでくる――その勢いに、ミサキはわずかに目を瞬かせた。


制服を思わせる装いのスタッフ。カウンターの奥にも、似たような恰好の人物が数人。 ほのかに甘い香りが鼻先をよぎる。


(しまった……)


心の中で舌打ちしながら、にこりともせず応じた。


「あ、いえ」

「セドアニアに行ったことはございますか?」

「いえ……ありません」


(ち、近い……)


間合いが近い。

視界の端で、スタッフの笑顔が意外な“圧”をともなってこちらを射抜いていた。空気の読み合いとは無縁な笑顔。


「実はこの国、もうないんですよ」

「……え?」


ない国のパンフレット。その言葉の齟齬に、小さく眉が動く。


「セドアニア。むか〜しむかし、レバノンの北部にあった、小さな文化国です。今はもう、正式な国としては存在していないんですよ」


なんだか演出くさいと思いながらも、「もうない国」という言葉が、奇妙に心に引っかかった。


「でも、大人気なんですよ、このツアー。最近は口コミだけで広まってて。“夢が叶った”っておっしゃる方、すごく多いんです」


“夢”――そんな言葉をずっと後ろに置いてきたはずなのに、 明るい声の抑揚が、不意に遠くの何かを呼び戻す。


「へえ」


目線はパンフレットに残したまま。繰り返しその文字をなぞる。


「よかったら詳しくご説明いたしましょうか?すぐそちらにデスクがございますので」


断るはずだった。次の言葉も、断る流れを組んでいた。 ――なのに、足がふわりと浮いた気がした。

気づけば、ミサキはツアーデスクの方へと歩き出していた。


陳列されていたパンフレットを開きながら、女性が口を開いた。


「セドアニアは、セドラの森という保護区の周辺にあった、古い国の名前なんです。“運命の糸が見える国”って、聞いたことありませんか?」

「……あー、ある、かも?」


いつか誰かが送ってきた動画。音だけ流れていたテレビ番組。どこかで一度、触れた気がする。 けれど、日々をすべるように過ごしてきたせいで、記憶の棚は曖昧だった。


「このセドラの森でね、小指で木に触れると……そこから糸が伸びて、運命の人と繋がるという伝承があるんですよ〜」

「へえ……」


努めて無表情で相づちを打ったつもりなのに、声が少し上ずった。


(運命なんて、あるわけない。あるっていうなら、証拠を見せてよ)


そろそろ話を切り上げようとしたそのとき――


「……実は私も、このツアーに参加したことがあるんです。で、まあ……実体験がありまして」

「……」


(実体験、ね。それだけは……ちょっと聞いてみたい)


浮きかけた腰が、するりと椅子に沈み直った。


「……それは、どんな?」


(聞くだけ。話だけ。だって――糸が指から生えるなんて、どこからどう見たってオカルトでしょ)


喉の奥で息を整える。ごくん、と鳴らさぬように。


(平気。聞くだけなんだから)


「以前私、美容の仕事をしてたんです。でも、なんかいつもしっくりこなくて。それで友人に誘われてこのツアーに誘われて。好奇心だけで『なんかいいかも〜』って、わりと軽いノリで参加したんです」


言葉の端々に湿気もなくて、目も泳がない。 作り話をする人独特の“体温”がなかった。


「初日のセドラの森も、“神様がいる森”って言われても、正直“へ〜”くらいの感想しかなかったんですよ。 でも、その日……すごいことが起きちゃって」


期待なんてしてないはずだったのに、胸の奥が妙にざわついた。


「すごいことって……何が?」


にんまり。彼女が笑う。


「ふふ……“何が起こるかは、人それぞれ”って言われてるんですけどね」


(……ぼかした!)


無駄に引っ張られるのが嫌でそろそろ腰を浮かせかけた――そのとき。


「でも、“人生が変わった”って、参加した皆さん、ほとんどがおっしゃるんです」


(皆さん、って)


「皆さん」は便利な言葉だ。

問い返す人がいない前提で成立する言い回し。なのに、彼女の語尾には、曖昧さが微塵もなかった。


「ちなみに、私はツアーから帰ってきてすぐに、この仕事に転職したんですよ」


その言い方が、どうしようもなく“うさんくさかった”。 ……のに、どうしようもなく羨ましかった。


「……すみませんけど、本当にそんなにいいんですか?この仕事。旅行会社って、ノルマとか厳しいんじゃ……」


(美容の仕事してたっていうし、そっちの方が、ずっと……キラキラしててよさそうなのに)


本音が、言葉の端からふいににじんでいた。


じっとこちらを見ていた彼女が、ふわりと笑った。


「わかりやすく華やかなのが、すべてじゃないって思うんですよね〜、私」


肩をすくめる仕草に、気負いも迷いもなかった。 そのあと、ごく自然にこう続けた。


「まあ、それに気づいたのも、セドアニアツアーのおかげなんですけど」


そこだけ、ほんの少しだけ、目尻がやわらいだ。 ミサキが言葉を探す前に、彼女の表情が、すっと締まる。


「どうなるかなんて、確約はできませんが……動かなきゃ、変わらない。そうじゃありませんか?」


不意に放られたその言葉に、うまく返せなかった。 代わりに、彼女がパンフレットをそっと棚に戻し、声を落とす。


「よかったら、ネットで検索してみてください」


それが最後。 「またお越しくださいね」と、軽やかに解放された。


買い物に戻っても、視線が定まらなかった。服のタグをめくる手が止まり、立ち止まるたびに、店内の音楽が右から左へと流れていく。


(……なにを買おうとしてたんだっけ)


胸の奥ばかりがそわそわと熱を持ち、記憶の輪郭がにわかに曖昧になる。 商品棚の向こうで、誰かが笑う。その音さえ、やけに遠く聞こえた。


考えていたのは――セドアニアでも、あの女性でもなく。 ただひとつの言葉。


「……動かなきゃ、変わらない」


その一言だけが、こびりついたように、心の奥で繰り返されていた。

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