SideTalk_02:「蔵書点検って何?~本たちの年に一度の健康診断~」
## 1
長野県立明松高校の旧館図書室。五月の午後、図書委員会での「顔バレ事件」から数日が過ぎた頃のことだった。
木造の書架がずらりと並ぶ静謐な空間に、午後の陽ざしが差し込んでいる。天井の古い扇風機がゆっくりと回り、窓辺に揺れるカーテンが初夏の風を運んでくる。ここは明治期の旧制高校を改築した歴史ある校舎の一角で、床板がかすかにきしむ音さえも、この場所の持つ独特の雰囲気を演出していた。
私、綾瀬奏は濃紺のブレザーに白いブラウス、赤いリボンを締めた制服姿で、いつものように昼休みのカウンター当番に就いていた。長い黒髪をきちんと整え、こげ茶色の瞳で図書室全体を見渡している。
そんな私の前に、一年生の女子が恐る恐る近づいてきた。
「あの……すみません」
「はい、どうしました?」
「図書室って、初めて使うんですけど……どうすればいいんでしょうか?」
新入生だ。まだ図書室の使い方がわからないらしい。
「大丈夫ですよ。説明しますね」
私は委員長として、丁寧に説明を始めることにした。
## 2
「まず、図書室を利用するときは生徒証が必要です」
私がカウンターの上で生徒証を示しながら説明する。
「本を借りるときは、この生徒証と一緒に本をカウンターまで持ってきてください」
「はい」
一年生の女子が真剣にうなずく。彼女は栗色のセミロングで、まだあどけない顔をしている。制服も新しくて、入学したばかりなのがよくわかる。
「借りられる本の冊数は、一人につき五冊までです」
「五冊も借りられるんですか?」
「はい。返却期限は二週間。もし期限を過ぎそうになったら、一度だけ延長できます」
説明しながら、カウンターに置いてある貸出用の機器を指す。図書館システム用の端末と、本の管理に使う古いタイプのパソコンが並んでいる。
「でも、他の人が予約を入れている本は延長できないので、注意してくださいね」
「わかりました」
「それから、図書室内では飲食禁止です。お水も含めて、一切だめ」
これは絶対のルールだ。本を汚してしまう可能性があるから。
「私語も禁止……というか、小声でお願いします」
「はい」
「携帯電話もマナーモードにして、通話は廊下でお願いします」
基本的なルールを一通り説明すると、一年生の女子は安心したような顔をした。
「ありがとうございます。でも、どの本がどこにあるのか、わからなくて……」
「それも説明しますね」
## 3
私は一年生の女子を図書室の奥へと案内した。
「こちらが一般図書のエリアです」
木製の書架が整然と並んでいる。背の高い本棚が天井近くまで続き、古い本特有のほのかな匂いが漂っている。
「日本十進分類法で整理されているんです」
「じゅっしん……?」
「ジャンル別に番号がついているんですよ。000番台が総記、100番台が哲学、200番台が歴史……」
私が書架の間を歩きながら説明する。足音が床板に響いて、図書室独特の静寂を演出している。
「文学は900番台です。小説はだいたいここにあります」
「なるほど……」
「作者名の五十音順に並んでいるので、探しやすいと思います」
一年生の女子が書架を見上げる。確かに、高い位置にある本は取りにくそうだ。
「高いところの本は、踏み台を使ってください。あそこにあります」
図書室の隅に置いてある踏み台を指す。
「でも、あまり高いところの本は、司書の田村先生に頼んでくださいね」
「はい」
「それから、本を戻すときは元の場所に戻してください。適当な場所に置かれると、他の人が探せなくなってしまうので」
これも大切なルールだ。
「もし場所がわからなくなったら、カウンターに『返却』として持ってきてください。私たちが正しい場所に戻します」
「わかりました」
一年生の女子が熱心にメモを取っている。真面目な子だ。
## 4
「あと、特別なエリアもあるんです」
私が図書室の奥を指す。
「あちらが参考図書コーナーです」
「参考図書?」
「辞書とか百科事典とか、調べ物をするときに使う本です。こちらは貸し出しできません」
参考図書コーナーには、大きな机が置いてある。辞書や資料を広げて調べ物をするためのスペースだ。
「レポートを書くときとかに、よく使われますね」
「そうなんですね」
「それから、新聞・雑誌コーナーもあります」
窓際に設置されたソファを指す。そこには当日の新聞と、最新号の雑誌が並んでいる。
「新聞は一週間分置いてあります。雑誌は貸し出しできませんが、館内で読むことはできます」
「いろいろあるんですね」
「はい。あと……」
私は声を少し落とした。
「実は、隠れた特等席があるんです」
「特等席?」
一年生の女子が興味深そうに身を乗り出す。
「窓際の一番奥の席です」
私が指し示したのは、図書室の隅にある小さな机だった。
「あそこは、午後の陽ざしが一番きれいに入るんです。それに、周りから見えにくいので、集中して勉強できます」
「へえ……」
「でも、人気があるので、早い者勝ちです」
私がにっこり笑うと、一年生の女子も嬉しそうに笑った。
## 5
「最後に、一番大切なことをお教えします」
私がカウンターに戻りながら言う。
「図書室には、『書庫』という場所があるんです」
「書庫?」
「普段は入れない場所です。古い本や、あまり読まれない本が保管されています」
カウンターの奥を指す。確かに、小さな扉が見える。
「年に一度の蔵書点検のときだけ、図書委員が入ることができます」
先週、航と一緒に入った場所だ。思い出すだけで、少し胸がドキドキする。
「蔵書点検って何ですか?」
「図書館にある本が、きちんと揃っているかを確認する作業です」
私が簡単に説明する。
「本がなくなっていないか、傷んでいないかをチェックするんです」
「大変そうですね」
「でも、普段見られない貴重な本に出会えることもあるんですよ」
先週見つけた中原中也の初版本のことを思い出す。航と一緒に見たあの本は、本当に美しかった。
「いつか、図書委員になったら書庫に入れるかもしれませんね」
「図書委員ですか……」
一年生の女子が少し考え込む。
「興味があったら、来年度の委員選出のときに立候補してみてください」
「はい、考えてみます」
## 6
一通りの説明を終えて、一年生の女子は早速本を探しに行った。
私は一人でカウンターに戻り、今日の説明を振り返っていた。
図書室のルール。
一見すると堅苦しく思えるかもしれないけれど、これらのルールがあるからこそ、図書室は静かで居心地の良い場所でいられるのだ。
そして、書庫のこと。
あの場所は、確かに特別だった。
航と二人きりで過ごした時間は、普通の図書室では味わえない特別な体験だった。
「奏っち、何ぼーっとしてるの?」
木下くんの声で現実に戻る。
「あ、木下くん。お疲れさま」
「お疲れ。さっき一年生に説明してたでしょ?」
「うん、図書室の使い方を教えてた」
「親切だなー。さすが委員長」
木下くんがにこにこしている。寝癖で跳ねた明るめの茶髪が、いつものように元気な印象を与える。
「当然のことよ」
「でも、書庫のことまで教えてたよね?」
「ちょっとだけ」
「あー、先週航と一緒に入った場所ね」
木下くんがにやりと笑う。
「別にそんな意味で話したわけじゃないよ」
「本当にー?」
「本当」
でも、確かに書庫の話をするとき、自然と航のことを思い出していた。
あの時間は、本当に特別だったから。
「まあいいや。でも奏っち、最近表情柔らかくなったよね」
「そうかな」
「そうそう。きっと、いいことがあったんでしょ?」
いいこと。
確かに、この一週間は楽しいことが多かった。
航と本について語り合えたり、お互いの読書記録を見せ合ったり……
「秘密」
「えー、教えてよー」
木下くんが残念そうな顔をする。
でも、これは私だけの秘密。
図書室で始まった、小さな恋の物語は、まだ誰にも話せない大切な宝物だった。
## 7
その後、何人かの生徒が本を借りに来た。
私は委員長として、一人一人丁寧に対応する。
図書室は、学校の中でも特別な場所だ。
静寂と知識に満ちた空間で、生徒たちがそれぞれの時間を過ごしている。
ある人は試験勉強のために参考書を読み、ある人は小説の世界に没頭している。
そして、時には——
恋が生まれることもある。
私と航のように。
カウンター越しに図書室全体を見渡しながら、私はそんなことを考えていた。
明日もまた、この場所で彼に会える。
一緒に本について語り合える。
そう思うだけで、なんだか嬉しい気持ちになった。
図書室のルールは確かに大切だけれど、一番大切なのは——
この場所で生まれる、人と人との繋がりなのかもしれない。
昼休みが終わり、図書室が静かになった頃、私は今日出会った一年生の女子のことを思い出していた。
彼女も、いつかこの図書室で素敵な出会いがあるといいな。
そんなふうに思いながら、私は午後の当番業務を続けた。
窓の外では、初夏の風が校庭の緑を揺らしている。
今日もまた、図書室に穏やかな時間が流れていく。
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