Section_4_1c「まだ確定じゃないんですよね?」

## 8


「まだ確定じゃないんですよね?」


私が希望を込めて聞くと、航が複雑な表情になった。


「はい……でも、父の様子を見ていると」


父の様子。


「やっぱり、関東に行くことになりそうです」


そうか。


やっぱり、そうなんだ。


「何月頃になりそうですか?」


「おそらく……三月の終わり頃」


三月の終わり。


春休み中に引っ越して、新学期からは向こうの学校に。


ということは、私たちに残された時間は——


あと半年もない。


「短いですね」


「はい……」


短い。


でも、その短い時間を——


どう過ごそうか。


悲しみながら過ごすのか。


それとも——


「航くん」


「はい?」


「この半年間——私たちなりに、精一杯やってみませんか?」


精一杯。


航が、私の言葉を反芻するように呟く。


「短い時間だからこそ——大切にしたいんです」


大切にしたい。


私の本心だった。


どうせお別れするんだから、最初から諦める。


そんなのは、嫌だ。


短くても——この気持ちを、ちゃんと育てたい。


航との時間を、一日一日、大切に過ごしたい。


## 9


「精一杯……」


航が私の言葉を繰り返す。


「それは、どういう——」


「今まで遠慮していたことも——少しずつ、やってみませんか?」


今まで遠慮していたこと。


手を繋いだり、もっと長い時間一緒にいたり。


普通のカップルがするような、いろんなこと。


「でも、別れが辛くなるかもしれません」


「辛くなってもいいです」


私は、はっきりと答えた。


「何もしないで後悔するより——やってみて、思い出を作りたいです」


思い出。


航がいなくなった後も——


ずっと大切にできるような、思い出を。


「綾瀬さん……」


航の目が、少し潤んでいるような気がした。


「僕も、同じ気持ちです」


同じ気持ち。


「この半年間——あなたと一緒に、たくさんの思い出を作りたいです」


たくさんの思い出。


そう、それでいい。


短い時間でも——濃密な時間にすることはできる。


お互いの気持ちを、ちゃんと伝え合うことはできる。


「じゃあ……」


私が立ち上がる。


「まず、今日から始めませんか?」


「今日から?」


「はい」


私は、勇気を出して——航に手を差し出した。


「手、繋いでもいいですか?」


航の表情が、ぱっと明るくなった。


「はい……ぜひ」


## 10


航の手は、思ったより大きくて——温かかった。


少しだけ震えているのは、緊張しているからかもしれない。


私の手も、きっと震えている。


でも、不思議と——嫌な感じはしなかった。


むしろ、とても安心する。


「歩きませんか?」


私が提案すると、航がうなずいた。


「はい」


手を繋いで歩く。


こんな簡単なことなのに——


今まで、どうしてできなかったんだろう。


遊歩道を歩きながら、私は考えていた。


半年後、航はここにいない。


この道を、一人で歩くことになる。


でも、その時——


今日のことを思い出すだろう。


航と初めて手を繋いで歩いた日のことを。


それは、きっと悲しい思い出になるかもしれない。


でも、同時に——


大切な、宝物のような思い出にもなる。


だから、今は悲しまない。


今は、この瞬間を——


精一杯、大切にしよう。


「綾瀬さん」


「何ですか?」


「ありがとうございます」


「どうして?」


「僕の我儘を……受け入れてくださって」


我儘。


そんなものじゃない。


これは——私たちの選択だ。


短い恋だとわかっていても——


それでも、一緒にいたいという選択。


お別れが辛いとわかっていても——


それでも、思い出を作りたいという選択。


「我儘じゃないです」


私が言うと、航が少し驚いたような顔をした。


「これは、私たちの——」


何と言おうとして、適切な言葉が見つからない。


でも、航には伝わったみたいだった。


「そうですね……僕たちの選択ですね」


「はい」


私たちの選択。


短くても、精一杯の恋をする。


季節が終わってしまう前に——


できることを、全部やってみる。


そんな風に決めた、秋の日の夕方だった。


手を繋いだまま、私たちは女鳥羽川沿いの道をゆっくりと歩き続けた。


## 11


家に着く頃には、すっかり暗くなっていた。


玄関の前で、私たちは手を離した。


「今日は……ありがとうございました」


航が頭を下げる。


「私こそ」


「明日も、一緒に帰っていただけますか?」


「もちろんです」


明日も。


明後日も。


航がここにいる間は——


できるだけ多くの時間を、一緒に過ごそう。


そう決めた。


「それでは、また明日」


「はい、また明日」


航が自転車にまたがって、坂道を下っていく。


その後ろ姿を見送りながら、私は思っていた。


あと何回、この風景を見ることができるんだろう。


でも、数えるのはやめよう。


一回一回を、大切にしよう。


そして——


今日という日を、忘れないようにしよう。


初めて手を繋いだ日。


私たちが、本当の意味で恋人になった日。


季節の終わりを感じながら——


新しい始まりを決意した日。


空を見上げると、星がきらきらと輝いていた。


明日も、いい天気になりそうだ。


航と過ごす、大切な一日が——


また始まる。

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