Section_2_ 2c「『私なんか』じゃないです」
## 5
校門まで来たところで、木下くんが別の方向に向かうことになった。
「じゃあ、俺はこっちだから」
「お疲れさま」
「また明日ー」
木下くんが手を振って去っていく。
残されたのは、私と航だけ。
「僕も、この先で分かれるので」
「あ、そうですね」
二人になった途端、なんだか緊張してしまう。
歩きながら、何か話した方がいいのかと思うけれど、なかなか言葉が出てこない。
「あの……」
航が口を開く。
「今日は、ありがとうございました」
「え?」
「僕の文章を褒めてくださって」
「当然です。本当に素敵でしたから」
「綾瀬さんに認めてもらえると、自信が持てます」
自信が持てる。
「私なんかの意見で?」
「『私なんか』じゃないです」
航が少し強い口調で言った。
「綾瀬さんの感性は、とても鋭いし、言葉の選び方も丁寧で……僕は、いつも感心しています」
いつも感心している。
その言葉に、胸がきゅっとする。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
私たちが歩いているのは、いつもの通学路。でも、今日はなんだか特別な感じがする。
夕日が建物の間から差し込んで、航の横顔を照らしている。
その横顔が、いつもより穏やかに見えた。
「あの……」
今度は私から話しかける。
「何ですか?」
「航くんと一緒にポップを作っていると、楽しいです」
「僕もです」
即答だった。
「本当ですか?」
「はい。一人で作業するより、ずっと楽しいです」
一人より、ずっと楽しい。
「私も同じです」
私たちが微笑み合ったとき、航の分かれ道に来た。
「ここで……」
「はい。お疲れさまでした」
「明日も、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
航が去っていくのを見送りながら、私は今日のことを思い返していた。
航の書いたポップの言葉。
あの美しい文章は、きっと忘れられない。
そして、あの瞬間の空気感も。
もしも木下くんが来なかったら、航は何を言おうとしていたんだろう。
そんなことを考えながら、家路を急いだ。
## 6
その夜、私は航の書いたポップの言葉を思い出していた。
『大切な人に「ありがとう」を伝えるのは、今日かもしれません。』
大切な人に「ありがとう」を伝える。
航は、そんなふうに思いながらあの文章を書いたんだろうか。
そして、もしそうだとしたら——
航にとって大切な人って、誰なんだろう。
考えてみると、航の交友関係をあまり知らない。
クラスでも、いつも一人で本を読んでいる。
友達はいるんだろうか。
それとも、家族のことを思いながらあの文章を書いたのかもしれない。
色々と考えを巡らせているうちに、ふと思った。
もしかしたら——
私も、航にとって少しは大切な存在になれているんだろうか。
そんなことを考えるのは、おこがましいかもしれない。
でも、今日の航の言葉や表情を思い出すと、少しだけ期待してしまう。
読書記録ノートを開いて、今日のことを書こうとする。
でも、なかなか言葉が見つからない。
今日感じたことは、言葉にするには複雑すぎる。
結局、短い一文だけ書いた。
『航くんの言葉に、心を撃ち抜かれた。』
撃ち抜かれた。
まさにそんな感じだった。
航の書いた文章は、私の心の奥深くまで届いて、何かを変えていった。
それが何なのかは、まだよくわからない。
でも、確実に変わった。
窓の外を見ると、星がきれいに見えている。
明日もまた、航と一緒に作業をする。
そう思うだけで、なんだか胸が暖かくなった。
きっと、今夜もいい夢が見られそうだ。
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