第2話── 千年前のステージへようこそ ──
……静かだ。
昨日の騒がしい空港の環境音も、機内アナウンスも、耳に届かない。代わりに、障子越しに差し込む柔らかな光と、朝の風に揺れる木々の葉擦れの音が、ゆったりと空間を満たしていた。
ゆっくりと瞼を開ける。目に映るのは、昨日と同じ格子天井。やっぱり、夢じゃない。
(ここは……)
体を起こすと、和紙の襖に描かれた薄墨の山並みが視界に入る床は畳。掛け布団も、枕も、全部が“和”そのもの。
「……マジでタイムスリップした?」
(前に日本のアニメで見たことあるやつだ。)
思わず口に出した言葉が、部屋に虚しく響いた。
──いや、そんな非現実的なことが……
(でも、あの男は……俺を『晴明』って……)
胸元に手をやる。鼓動が妙に静かだ。興奮してるはずなのに、妙に落ち着いている。まるで、自分の身体じゃないみたいな──
(まさか……この身体、“安倍晴明”ってことか?)
鏡を探そうとしたが、もちろん部屋にそんな便利なものはない。
代わりに、障子の外からかすかに声が聞こえてきた。
「晴明様は?ご容体はいかがですか?」
「まだお休みになられてます。昨日、お目覚めにはなったものの、意識を失われて……」
耳を澄ませば、聞き慣れない言葉遣い。けれど、不思議と意味はわかる。声は柔らかく、それでいてどこか丁寧で、芝居がかった響きがある。
(俺、平安時代に──いや、“晴明”として生きてる?)
そう確信しかけたとき、障子が静かに開く音がして、一人の若者が顔を覗かせた。
「失礼いたします、晴明様。朝餉の支度が整っております」
彼は昨日と同じく、端正な顔立ちに涼やかな声。名を”今出川実朝”と言うらしい。清潔な直衣姿がどこか神職めいている。昨日の記憶がフラッシュバックする。
(また、俺を“晴明”って……)
戸惑いはあった。けれど、今はそれを問いただすよりも、空腹のほうが勝った。
「……わかった。行くよ」
自分の口から出た声が、少しだけ低く、柔らかい。地声とは違う響きに、一瞬戸惑うが、相手は気にも留めていないようだった。
襖の向こうに案内されると、広間に整えられた膳が目に入った。
白米に味噌汁、数種の小鉢に干物。香りは控えめだが、どこかほっとする和の朝食。
座るよう促され、ぎこちなく正座して箸を手に取る。見よう見まねでも、身体が勝手に動くことにさらに驚かされる。
(俺……日本の所作、あまり詳しくないんだけど……)
「熱の影響でしょうか、昨日からお顔が少し……変わったように思われます。」
実朝がふとそんなことを呟いた。
「……それって、どういう……?」
「いえ、失礼を……。ただ、まなざしの奥が、以前よりもずっと……穏やかで、澄んでおられるのです」
そう言って、彼は静かに頭を下げた。
(前の“俺”と、今の俺は……違うって、ことか)
実朝は、食事を摂り終わった後、静かに話し始めた。
「本日も、陰陽寮より文が届いております。『今週の占事報告』について、検分を求められておりますが……いかがなさいますか?」
(陰陽寮? 占事? 報告書の検分?)
──急に、舞台の主役に立たされた気分だった。
でも、演じることに関してだけは、俺に敵う人間はいない。
(よし……やってやろうじゃないか。“大陰陽師”の役をな)
顔を上げると、俺は微笑んで言った。
「いいよ。その報告、見せてくれる?」
戸惑いと不安の渦の中、マジシャンとしてのプライドが、ふと背筋を伸ばさせた。
──それが、千年前の舞台での“初日”だった。
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