47怖目 『猿餅』

 とある冬、男が炭焼きの木を探して、山へ入っていた。


 しばらく歩くと、立派なコナラの木が一本、冬空に向かって堂々と立っていた。


 ――これなら、たっぷり炭が焼ける。


 町へ持っていけば、餅も酒も買える。そうすれば正月を無事に迎えられるだろう。


 そう踏んだ男が木に近付き、斧を構えたその時だった。


 ふいに、背後から視線を感じた。


 振り返ると、一匹の猿が、じいっとこちらを見据えていた。


 この時期に猿が一匹? 群れからはぐれたか……?


 男が訝しんでいると、猿は口を開いた。


 『人さま、人さま。ここはオラらの大事なコナラの木でさ。この木がなくなっちまうと、どんぐりが食えん。そしたら、来年生まれるオラの子の面倒が見られんのだ。どうか、勘弁してくれんか』


 突然のことに男は息を呑んだが、すぐ言い返した。


 「猿さん。猿さん。オラだって、この木を切らねぇと正月が越せねぇ。炭にして売らにゃ、餅も酒も買えねぇだよ」


 互いに引かず、押し問答が続きそうだった。


 そこで男は提案した。


 「猿さん。猿さん。じゃあ、こうしよう。オラがこの木の炭を売って、餅が買えたら、猿さんにも分ける。餅ならどんぐりより栄養もあるし、腹にもたまる。どうだ」


 猿はしばらく男を見つめていたが、やがて小さく頷いた。


 『……人さま、人さま。あいわかった。ならば、このコナラが餅に変わったら、この木のあった場所に置いとくれ』


 そう言い残すと、猿はひょいと近くの木に登り、枝づたいに山の奥へ消えていった。


 男は急いでコナラを切り倒し、炭を焼いた。


 炭を売って餅を手に入れると、約束どおり切り株の上に餅を置いた。


 離れてから振り返ると、餅はもう消えていた。


 おかげで男はその年、無事に正月を迎えることができた。




 ――そして、翌年の正月。


 男は再び炭焼きのため山に入り、また立派なコナラを見つけた。


 男が斧を構えると――。


 『人さま、人さま。ここはオラらの大事なコナラの木でさ。この木がなくなると、どんぐりが食えん。今年生まれたオラの子が腹を空かしちまう。どうか、勘弁してくれんか』


 聞き覚えのある声だった。


 男はしばらく考えたのち、前と同じ提案をした。


 「猿さん。猿さん。なら、こうしよう。オラがこのコナラで炭を焼き、餅が買えたら、また猿さんにもやる。餅なら、あんたの子も喜ぶだろう」


 猿は少し思案し、それから頷いた。


 『人さま、人さま。あいわかった。このコナラが餅に変わったら、この木のあった場所に置いとくれ』


 男はその年も炭を焼き、餅を買い、切り株の上に置いた。



 


 その次の年の正月。


 男はまた炭を焼くために山へ入った。


 だが、今年はいくら探しても炭に適した木がなかなか見つからない。


 ようやく良さそうな一本のコナラを見つけ、斧を振り上げたところで――


 『人さま、人さま。ここはオラらの大事なコナラの木でさ。もう碌などんぐりの木が残っとらん。この木を切られたら、オラの家族が飢えてしまう。どうか、これだけは勘弁してくれんか』


 猿の声だった。


 男は眉を寄せ、しばし考えてから答えた。


 「猿さん。猿さん。じゃあこうしよう。この木の炭で餅が買えたら、今年は全部あんたにやる。この冬さえ越せれば、来年の春には、またどんぐりが生えるだろう。オラは酒さえ飲めりゃかまわねぇ。それでどうだ」


 猿はうんうん唸り、やがて頷いた。


 

 『人さま、人さま……あいわかった。このコナラが餅に変わったら、この木のあった場所に置いとくれ』


 男はコナラを切り倒し、炭を焼くと、山を降りて麓の町へ売りに行った。


 だが、今年の炭はほとんど売れなかった。


 隣村の者が一足先に町へ炭を売り捌いてしまったらしい。


 男は仕方なく村へ戻る道すがら、どうしたものかと頭を抱えた。


 このまま帰れば猿との約束を破ることになる。


 猿は大事なコナラを譲ったのだ。手ぶらで戻れば、きっと怒る。


 ――もう山に入ることすら許されないかもしれん。


 不安に胸をざわつかせていた時、ふと昔、村の婆さまが言っていたことを思い出した。


 「沢筋の陰に生える黒紫の根には気をつけろ。犬が嗅いだだけで倒れたこともある。あれは附子だ。近寄っちゃなんねぇ」


 男は立ち止まった。


 そして、村への道とは逆方向――沢の方へと、ゆっくり歩きだした。


 冬枯れの草をかき分けると、冷たい沢のほとりに、黒紫の塊のような根が半ば土から顔を出していた。


 男は黙ってそれを掘り起こした。


 家に戻ると、すり鉢を取り出し、根を細かく刻んで叩き潰し、粉とも泥ともつかぬ毒の塊を作った。


 餅の代わりにくず米をこねて小さな団子を作り、その中へ附子の粉をしっかりと練り込む。


 「……これで、よかんべ」


 男は立ち上がり、団子を持ってコナラの切り株へ向かった。


 切り株に団子を置くと、山の奥へ向かって声を張る。


 「猿さん。猿さん。餅がようけあって持ち切れねぇ。今日は持てる分だけ団子にして持ってきた。また明日、残りも団子にして持ってくるでな」


 男はそそくさと切り株から離れた。


 間もなく、びゅうっと冷たい風が吹きぬけた。

 振り返ると、もうそこに団子はなかった。


 



 次の日、男は胸をざわつかせながら山へ向かった。


 昨夜雪が降ったらしく、山道はしんと白く染まり、昨日団子を運んだ自分の足跡も薄ぼんやりとしか残っていない。


 寂しく佇む切り株の断面を、男は指先で虚しくなぞった。


 ――もう猿は来ないだろう。


 冷たく濁った風が、びゅうっと木々の間を抜けて男の体を刺すように凍てつかせた。


 男は村へ戻ろうと踵を返した。


 その時――。


 『……人さま。人さま』


 弱々しく掠れた声が、背後からした。


 男の心臓がどくんと跳ねた。


 『人さま。人さま』


 聞き覚えのある声が、じわりと近付く。


 体が強張り、振り返ることができない。


 寒さのせいか、それとも別の理由か――


 季節外れの汗が滝のように背中を流れ落ちていく。


 『人さま、人さま。団子、ありがとなぁ』


 声は続く。


 『オラぁ、あいつら、団子なんて人さまの食いもん、初めてでさ。うめぇうめぇって喜んで食ったんだ。オラも嬉しくなって、自分の分も食わせたんだなぁ』


 しかし、と声が掠れた。


 『すぐに子どもが吐いちまった。喉に詰まらせたんかと思って背中叩こうとしたら、嫁も白目むいてげぇげぇ言いながらひっくり返って……子どもはがくがく震えて泡と血吐いて、それっきり動かん。顔が狐みてぇに引き攣って……。気づいたら嫁も静かに動かんくなってた』


 掠れているのに、どこか妙に早口だった。


 『いやぁ、人さま。うめぇもん食うと、ああなるんだなぁ。オラ、知らんかった。初めて知っただよ』


 言葉が急に優しい調子へ変わる。


 『オラ、人さまに礼しねぇと。どんぐり、うめぇんだ。人さまにも食わせてやりてぇ。今までの餅の分、たらふく食わせてやるからなぁ』


 男は震えた。汗が流れ、奥歯ががたがた鳴り、瞳孔が開く。


 背後の小さな影が、ゆっくりと大きく伸びていく気がした。


 『人さま、人さま……ここらはオラらの大事なコナラの木でさぁ』


 



 その晩、男が帰らないと村で騒ぎになった。


 村の男衆が総出で山へ入り、男を探した。


 山道を進むと、開けた場所に出た。


 その真ん中に、何か大きな影が落ちている。


 先頭の者が松明を近付け、根元の影をじいっと見つめ――あっ、と声を上げた。


 そこには、探していた男が事切れて倒れていた。


 身体の半分ほどが雪に埋もれ、仰向けのまま動かない。


 熊に襲われたのかと思われたが、食い荒らされた跡はない。傷もない。


 だが――異様だった。


 男の大きく開かれた口いっぱいに、どんぐりが詰め込まれていたのだ。


 「この季節に……どんぐりが?」


 村人たちは恐る恐る顔を見合わせ、そしてはっとして上を見上げた。


 男が倒れていた場所の真上には、一本の立派なコナラがそびえていた。


 男は口にどんぐりを詰められ、まるで何か恐ろしいものを見上げたまま息絶えたように、眼をかっ開いていた。


 その“何か”が、まだ木の上から自分達を覗いているかのように。


 そしてコナラには――真冬とは思えないほどの、たわわにどんぐりが実っていた。

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ちょびっとホラー ―ちょっとしたゾクリ― ノゾミイサム @Nozomi_Isamu

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