31怖目 『間引き絵馬 ―前編―』
とある山寺。本堂には、長い時を経た埃と共に、重苦しい空気が澱んでいた。
私は地方の出版社で文化記事を担当しているライターである。今回は、江戸時代から続くという山間の古寺を取材するため、この地を訪れていた。
迎えてくれたのは、小柄で柔和な表情の住職だった。彼は本堂に私を通すと、寺の縁起や年中行事、地元の信仰と密接に結びついた文化財について、丁寧に語ってくれた。
古文書に記された由緒、檀家との歴史的なつながり、失われかけた風習――どれもが取材対象として興味深く、私は夢中でメモを取った。
一通り話が終わると、住職は堂内を案内してくれた。黒光りする柱、褪せた天井絵、ところどころ虫食いの残る欄間。どこか冷んやりとしており、昼間だというのに、堂内はうす暗かった。
ふと外を見ると、すでに夕暮れの赤が境内を包み込んでいた。
「今日はもう遅いので、よろしければ、お泊まりになっていかれてはどうでしょうか」
住職の申し出に甘え、私は一泊させてもらうことにした。そして本堂を後にする前、最後にもう一度、何とはなしに天井近くへ視線をやった。
……その瞬間、目が止まった。
壁に掛けられた一枚の古びた絵馬。その木枠の中、描かれていたのは、一人の女と、床に寝かされた赤子だった。
だが、母と思しき女の顔には、明らかな異様さがあった。
赤子に目を向けず、強張った口元。怯えるように視線を逸らしている。何より、その両手は、赤子の顔に添えられていた――まるで、その鼻と口を……。
「……あの絵馬は?」
私が問うと、住職は「ああ……」と小さく息を漏らし、しばし口をつぐんだ。
やがて、静かに口を開いた。
「……“間引き絵馬”と呼ばれるものです」
私は背筋が粟立つのを感じた。
「……間引き、ですか?」
「ええ。――江戸の末期、ちょうど天保の飢饉のころ。このあたりも例外ではありませんでした」
住職の声には祈るような静けさがあった。
「長雨が続き、田畑は荒れ、作物は実らず。蓄えが尽きれば、残された選択肢は限られます。なかでも、口を減らす――“間引き”という手段は、日常の中に溶け込んでいたのです」
その言葉に、私は思わず絵馬を見上げた。
「……あの絵馬は、そうした時代の記憶を、忘れぬよう戒めとして残されたものです。赤子の命を断とうとする母親の姿。それを目にした者の胸に、罪の痕が残るようにと」
住職が指をさした。絵馬の片隅――女の背後、障子に映る影。
そこには、確かに角を持つ鬼の姿があった。
鬼と化した、母の影。
「……これは、祈りの形でもあるのです」
住職は静かに合掌し、目を閉じた。
「命を奪わざるを得なかった母親たちは、後にこの寺を訪れ、何度も手を合わせたと聞いています。あの絵馬は、悔恨と供養と、そして……忘れてはならない記憶の象徴なのです」
私は、住職の説明を聞きながら、自分が苛立つのを感じていた。
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