30怖目 『猿子』
とある山間の村。男は年老いた父とふたり、ひっそりと暮らしていた。
その父が、重い病に伏してからというもの、家の中にはいつも沈黙と咳の音ばかりが満ちていた。
食事も喉を通らず、見るからにやせ細った父は、ある晩、布団の中で呻くようにこう言った。
「……肉が……肉が食いてぇ……」
男は迷いながらも、うなずいた。
すでに村には食糧が乏しく、山へ行き、罠を仕掛けるよりほかなかった。
翌日、男は山奥へ向かい、獣道のそばに罠をいくつか仕掛けた。
鹿や兎がかかればいいと願いながら、冷たい風の吹く山をあとにした。
そして翌朝。再び山に入った男は、ひとつの罠に何かがかかっているのを見つけた。
それは――小猿だった。
罠に脚を挟まれ、弱々しく鳴いている。傍には母猿がいて、ギャアギャアと叫びながら、どうにか子猿を助けようと必死に動いていた。
それを見た男は凍りついた。
猿は、この村では神の使いとされ、忌み畏れられる存在だったからだ。
「猿を傷つけてはならん」と、子どもの頃から言われ続けてきた。ましてや、母子を殺すなど――。
だが、父の命はもはや風前の灯だった。今逃せば、次に罠が実を結ぶのがいつになるかわからない。
――仕方ねぇ……仕方ねぇべ……
覚悟を決めた男は、石を手に取り、母猿にそっと近づいた。
威嚇するように母猿が牙を剥き、叫ぶ。
「ぎゃーっ、ぎゃーっ!」
「……すまねぇ……」
小さく呟くと、男は石を振り下ろした。
「ぎゃっ」という悲鳴とともに、母猿は血を流し、地面に伏した。
男は小猿にも石を振るい、動かなくなった小さな体を懐に入れて、そっと山を下りた。
成猿の死体を持ち帰れば村人に見つかる恐れがあったが、小猿なら隠し通せる。
家に戻った男は、鍋に湯を沸かし、皮を剥ぎ、肉を煮込んだ。
残り少ない味噌と山菜で匂いをごまかしながら、一杯の肉鍋を作った。
「おっとう、ほら、山で狸が獲れただよ。うまそうだべ?」
そう言って肉を口に運ぶと、父は涙を流しながら言った。
「……うめぇなぁ……うめぇなぁ……おめぇは、本当に……ようやってくれたなぁ……」
男は黙ってうなずいた。
だが、その晩から父親の容体は急変した。
目は異様に飛び出し、元々痩せていた手足はさらに骨ばり、皮膚はどす黒く変色していった。口を開ければ、歯茎がむき出しになり、苦しみながらも声にならない声をあげる。
そして、夜が明ける頃――父親は冷たくなっていた。
その死に顔は、まるで猿のようだった。
それから数年が過ぎ、男は村の娘と結婚し、一人の子どもを授かった。
つぶらな瞳と、細い手足を持つ元気な男の子だった。男はその子を誰よりも愛した。
さらに年月が経ったある日の夕方、田仕事を終えて家に戻ると、妻が青ざめた顔で言った。
「……坊やがいないの。さっきまで家の表で遊んでたのに……」
慌てて家の外を見ると、小さな足跡が泥の上に残っていた。
人間の足跡ではない。――猿の、それも何匹もの足跡だった。
足跡は林の奥へ、山の斜面へと続いている。
村の男たちが総出で山を探し回ったが、どこにも子どもの姿はなかった。
夕暮れが過ぎ、夜が来ても、返事も、泣き声も、影すらも見つからなかった。
やがて季節が巡り、月日が流れるうちに、村には妙な噂が囁かれるようになる。
「山で猿の群れを見かけたんだがな……一匹だけ、どうにも妙なのがいたんだ。まるで人間の子どもみてぇでよ……」
「仕草は猿そのものだったが、顔が……顔が……人間の子どもだったってよ」
それを聞いた男は、胸の奥で何かが崩れる音を聞いた。
まさか。いや、でも――。
その日から男は、毎日のように山へ入った。
藪を分け、崖を越え、霧の中をひたすら歩き回り、猿の群れを探し続けた。
そして、ある日の夕暮れ時。
男は谷沿いの林で、一群の猿と出くわした。
何十匹もの猿が、木の上から、静かに男を見下ろしている。
牙を剥くわけでもなく、逃げるでもなく、ただ無言で、じっと男を見つめていた。
男が息を呑みながら見回すと、ひときわ目を引く親子の猿がいた。
母猿の腕に抱かれたその子猿は、他のどの猿とも違っていた。
毛がなかった。肌は人間のように白く、顔つきも、指の形も――人間だった。
「……坊……」
その瞬間、男の頭に蘇ったのは、あの夜の記憶だった。
山で罠にかかった子猿。
必死で助けようとしていた母猿。
そして、自らの手で振り下ろした、石。
母猿の顔をよく見ると、額には今もその時の傷が残っていた。
うっすらと盛り上がった、赤黒い痕。
「坊……! 坊、帰ってこい……! おめぇ、父ちゃんだべ……!」
男は涙ながらに叫んだ。
しかし、その“子ども”は、男の呼びかけに反応することはなかった。
母猿にしがみつきながら、目をひん剥き、猿のように「ぎゃあっ!」と甲高い声で叫び、牙を剥いて威嚇する。
そして母猿と共に、木の枝を伝って、山の奥へと姿を消していった。
男はその場に膝をつき、何も言えずに空を見上げた。
風が、林の奥から吹き抜ける。
その音の中に、たしかに聞こえた気がした。
――ぎゃ……ぎゃ……という、懐かしい、愛しい我が子の声が。
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