第20話 暗躍(ミレイナ視点)
リュシアが幼なじみの騎士・ルネの突然の訪問に冷や汗をかいていた、まさにその同じ時間に。
同じ街の、もっとも治安の悪い路地裏の、その更に路地裏の、路地裏の……そして一枚のドアのなかの、さらにドアのなかのドアのなかで。
昼なのに木戸を閉め切ってロウソクを灯したその部屋に、フードを目深に被って顔を隠した少女――ミレイナがいた。
テーブルの向こうには同じくフードを被って顔を隠した歳の分からない男がついている。
商談はあっさりまとまり、ミレイナは小切手に数字を書き込むと、すっと壮年の男へと滑らせた。男はそれをしげしげと眺めるてにたりと笑う。
「毎度あり。これで、こいつはあんたの物だ」
男はローブの下から赤いビロード張りの豪華な箱を取り出すと、ミレイナの前にことりと置いた。
ミレイナは箱を開け、中身を確認する。絹が敷き詰められたそこに鎮座していたのは、小指ほどの長さの小瓶だった。なかには霞色の液体が爪と同じくらいの量を封入されていた。とても小切手に書き込んだ金額に見合うようには思えない。
だが効果は絶大――なはずである。
「本物でしょうね?」
「俺にも信頼ってものがあるんでね、その信頼を傷つけるような商売はしない――ま、あとは信じてもらうしかないがね」
男は小切手の数字の桁を何度も何度も確かめながらいう。
「信じましょう」
ミレイナは言葉少なく頷くと、箱を閉めてマントの下にしまい込んだ。
黙って去ればいいものを、目的を達してほくそ笑みが止まらず、浮き立った心がつい口が滑らせる。
「これで、お父様に褒めていただけるわ……」
「オトウサマねぇ」
男は小切手から目をあげると、フードのなかのミレイナの目を見ようと、すこし身をかがめた。
「よっぽどの傑物だな、そいつは。実の娘にこんなものを取りに来させるたぁね」
ミレイナは顔を背けて椅子から立ち上がると、男に微笑みかける。
「信頼してくださっているのよ。信頼は大事なのでしょう?」
男は肩をすくめた。「一本取られたな」などと苦笑して口元が歪んでいる。
「で、こんなもの何に使うんだ? 娘の好きな相手に無理矢理愛でも誓わせるのか?」
「……ふふっ。面白いこというのね」
ミレイナは真っ赤な唇で笑う。そんな平和的な使い方のために、これだけの金を支払うわけがない。父はそんな優しい人間ではない。ハイリスクにはハイリターンを当然のように求める男だ。
だいたい、愛の誓いはもう得ている。目的のためとはいえ、好きでもない相手の婚約者になったのだ。それも、元いた婚約者を追い出してだ。
賞賛に飢えていた男を落とすのは、水たまりをぐしゃぐしゃに荒らすより簡単なことだった。
だか婚約者となった男の愛など、ミレイナにとってはどうでもいいものだった。
ミレイナがひたむきに求める愛は、違う男のものである。スラム街から自分を取り立て、ここまで活かしてくれた恩人――父からの愛、ただそれだけ。
そのためならば、他の男などどうでもいい。
「誰かが傷つく愛にこそ価値があるのよ。堕天使はそれを望んでいる……」
それだけ言い置いて、ミレイナはきびすを返した。
『霞の涙』を手に入れたのだ、はやくこれを持って父の元に戻らなければならない。まったく、王都から馬車を飛ばして10日という日数はいかんともしがたいものがある。ここは王都から離れすぎている。
だが、国王主催の舞踏会には日数的に十分間に合う。
(さあ、これから存分に泣くといいわ、『涙』よ)
ミレイナはマントの下で、豪華な小箱を握りしめた。
人の意志を歪める薬が真実の愛を運んでくるのだ。その皮肉に、この秘薬も嬉し涙を流しているだろう。
――舞踏会が、楽しみだ。
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