あなたの物語を、私が語るまで
ファントム
誰が彼女を傷つけたのか
壁一面にびっしりと貼り付けられた黒い防音シートが、長谷川雪(はせがわ ゆき)の六畳間の部屋を、外界から音響的にも物理的にも完全に断絶していた。まるで、世界から隔絶された潜水艦の内部のようだった。
PCモニターの中では、桜色の髪を揺らすアニメ調のアバター、「YUKI」が快活な声でファンのコメントに笑顔で応えている。大きな瞳がきらめき、画面の右側をコメントが滝のように流れていく。その熱狂の渦の中心に、YUKIはいた。
『YUKIちゃん今日もかわいい!』
『神回! やっぱYUKIしか勝たん!』
『次の企画、心霊スポット凸とかどう? 絶対バズるって!』
「みんな、今日もスパチャにコメント、いーっぱいありがとー! 最後まで盛り上がってくれて、YUKIは幸せだよっ! それじゃ、おつかれー!」
YUKIとして完璧なアイドルの笑顔で挨拶を終え、慣れた手つきで配信終了ボタンをクリックする。ファンファーレのような終了BGMが止み、ヘッドセットを外した瞬間、雪の顔から温度という温度が抜け落ち、能面のような無表情に変わった。さっきまでの熱狂が嘘のように、部屋はしんと静まり返る。
カチ、と静寂を切り裂くマウスのクリック音。ブラウザの別タブを開くと、そこに広がっているのは、YUKIに関する匿名掲示板のアンチスレッドだった。そこは、粘菌のように増殖し続ける悪意の培養地だった。
『この声の微妙な訛り、絶対〇〇地方だろ。隠しきれてねーよ』
『今日の配信、部屋の窓に一瞬、特徴的なビルが映り込んでたな。〇〇市のあの辺じゃないか?』
『そろそろ特定班、動くか? こいつの泣きっ面が見てみたい』
現実をじわじわと侵食してくる、粘着質な言葉の群れ。雪は、胃液がせり上がってくるような不快感を覚えながら、うんざりした顔でブラウザを閉じた。
PCの電源を落とすと、部屋は本当の静寂を取り戻す。
雪は、椅子から立ち上がると、机の傍らに無造作に置かれた黒いマスクと、一枚の紙を手に取った。それは、古びた「銀星デパート」の見取り図。
数週間かけて、ネットの海から拾い集めた古いフロアガイドや、好事家がブログにアップした潜入写真、あらゆる情報を統合し、彼女自身が作り上げたものだ。その調査の過程で、元従業員が綴ったという古いブログに「奇妙な出来事を記録した日誌があった」という、真偽不明の書き込みを見つけていた。
監視カメラの位置と、その死角となるルートが、赤いボールペンで執拗なまでに、まるで血管のように書き込まれた、手書きの地図。
その地図を見つめる雪の瞳に、病的なまでの静かな決意の光が宿っていた。もう、逃げる場所は、あそこしか残されていないのだから。
「ねぇ、雪。あのデパート、やっぱりやめときなよ。お願いだから」
茜色に染まる通学路。数少ない友人が、心底心配そうな顔で雪の腕を掴んだ。
「うちのおばあちゃん、昔そこでパートしてたんだって。本当にヤバい場所だって言ってた。昔、女の子が亡くなった事故があって…良くないことが色々あったみたい…」
友人は辺りを気にするように声を潜める。「おばあちゃん、パート仲間と一緒に会社から固く口止めされてたみたいだけど、酔っ払った時にポロッと…。だから今も『出る』って…。『あそこだけは行っちゃ駄目だ』って、何度も…」
「だから行くの」
雪は、沈みかけた夕日をまっすぐに見つめて、静かに、しかしきっぱりと答えた。
「これは配信のネタ探しなんかじゃない。誰にも詮索されず、誰にも特定されない場所で、『本物』に会うためだから」
ネットの世界では、あらゆるものが分析され、特定され、意味を暴かれてしまう。でも、幽霊だけは、誰にも正体を暴けない。『究極の匿名存在』だから。雪にとって廃デパートへの潜入は、ネットの喧騒から完全に遮断された空間で、誰にも汚されていない「本物の物語」と出会うための、歪で神聖な儀式と化していた。
彼女の横顔は、現実からの逃避と、純粋で病的な好奇心に満ちていた。
閉店まであと三十分。日曜の夕暮れの銀星デパートは、かつての賑わいが嘘のように閑散としていた。雪は他の客に紛れ込み、目的の場所へ向かうため、静かにエスカレーターで上層階へと昇っていく。
一階の化粧品売り場の甘い香水と、地下の食品売り場から漂う惣菜の匂いが混じり合う。活気と寂寥感が同居する、不思議な空間。
4階から上は、十年以上前に閉鎖されて久しい。フロアに降り立った瞬間、空気が変わった。湿り気を帯び、カビと積年の埃が混じり合った、澱んだ匂いが鼻をつく。客の姿は一人もなく、不規則に点滅を繰り返す蛍光灯が、不気味な影を床に落としていた。
シャッターが下りた空き店舗には、色褪せた80年代のアイドルのポスターや、今では誰も知らないアニメのキャラクターが微笑んでいる。ここは、昭和という時代が真空パックされたまま、忘れ去られた場所。
その時、制服のポケットに入れたスマホが、ぶるりと震えた。それは最近、粘着質にメッセージを送ってくる見知らぬアカウントからのDM通知だった。心臓が跳ねる。
『YUKIちゃん、今〇〇駅にいるでしょ?今日の服装、グレーのパーカーだよね。可愛いね』
背筋を氷の指でなぞられたような悪寒が走った。雪は忌々しげに通知を消し、震える手でスマホをマナーモードに設定した。
この場所だけが、ネットのしがらみから逃れられる唯一の聖域なのだ。彼女の心には、極度のストレスによるパラノイアの種が、深く、深く根を張っていた。
地図で確認しておいた、5階の女子トイレ。その一番奥の個室に身を隠し、息を殺す。
やがて、物悲しいメロディの「蛍の光」が、古びたスピーカーからくぐもった音で流れ始めた。客の気配が完全に遠ざかっていく。そして、ガシャン、ガシャン、と重々しい地響きにも似た音を立てて、各階のシャッターが閉まっていく。デパートは、巨大な棺のように外界から遮断され、完全な静寂に包まれた。
雪はゆっくりと個室から出て、大きく深呼吸をした。閉じ込められた空気は、ひどく冷たく、鉄の味がした。
その、瞬間だった。
コン……コン……。
遠くの階段から、古いゴムボールが一段ずつ、ゆっくりと跳ねて落ちてくるような音が聞こえた。不規則な間隔。まるで、意思があるかのように。
コン……。
音は、ちょうど雪がいる5階の踊り場で、ピタリと止まった。
古い建物のきしみか、迷い込んだネズミか何かか? いや、違う。この音は、あまりにも明瞭すぎる。
雪の追い詰められた精神が、意味のない物音に意味を見出そうとする。
「……本物?」
全身の毛が、ぶわりと総毛立つ。しかし、その純粋な恐怖はすぐに、黒くねじくれた興奮へと変質していった。
「やっと会えた」
これよ。私が求めていたのは、これ。誰にも汚されない、私だけの物語。
雪はスマホを取り出し、ディスプレイのライトをつけた。白い光が、暗闇をナイフのように切り裂く。音のした階段へ、一歩、また一歩と、吸い寄せられるようにゆっくりと向かう。その口元が、無意識に三日月形に歪んでいることに、彼女自身は気づいていなかった。
「フフ…すごいネタが見つかった…。これは、正真正銘の“本物”だ」
それは、自分を日々追い詰めるネットのアンチたちが、獲物を見つけた時に使うのと同じ、侮蔑と消費の言葉。
(ネットの奴らと同じだ、私だって…安全な場所から、珍しいものを覗き見て、楽しんでるだけじゃないか…)
一瞬、氷のように冷たい自己嫌悪が胸をよぎる。だが、それを振り払うように、脳を直接焼くような強烈な高揚感が全身を支配した。
「最高の夜の始まりだ」
彼女は自分に言い聞かせ、暗く、底の見えない階段の闇へと、最初の一歩を踏み出した。
噂の中心である「呪われた階段」の前に、雪は立った。ひんやりとした空気が肌を撫で、空気が一段と重くなるのを感じる。建築様式がここだけ違う。壁紙がめくれた部分から、さらに古い時代のものと思われる、不気味な花柄の壁が覗いていた。
高揚感を胸に、彼女は階段の最初の一歩に足をかけた。
その瞬間。
カタン。
背後で小さな物音がして、弾かれたように振り返る。しかし、そこには誰もいない。ただ、静まり返った広大な売り場が、闇をたたえて広がっているだけだ。
もう、後戻りはできない。雪は覚悟を決め、一段、また一段と、慎重に階段を上り始めた。
3階のフロアに差し掛かった時、バックヤードへと続く『関係者以外立入禁止』のプレートが外れかかった扉が、半開きになっているのが目に入った。事前の調査で知った「日誌」の噂が頭をよぎり、強い好奇心に引かれ、中を覗く。そこは、従業員用の休憩室だったのだろう。長机とパイプ椅子が乱雑に置かれ、壁には色褪せた安全標語のポスターが貼られていた。並んだスチールロッカーの一つが、錆び付いて少しだけ開いていた。
中に何かある。運命的な予感がした。
手を伸ばすと、埃をかぶった分厚い大学ノートがあった。表紙にはマジックで「従業員日誌(1995年)」と書かれている。
パラパラとページをめくると、几帳面な女性のものと思われる、丸みを帯びた文字が並んでいた。その日の売上報告や連絡事項に混じり、時折、インクの色を変えて、私的なメモのような記述があった。
『ミサキちゃん、また中央階段で一人で遊んでる。あそこは資材も置いてあるし、危ないのに』
『あの子のお母さん、今日も来てた。いつも寂しそうな顔をして、娘さんのことを探してるみたい』
『事故の件、会社側からきつい箝口令が。私たちは何も見ていない、聞いていないことに…悔しい』
ミサキちゃん…? 事故…?
心臓が早鐘を打つ。友人の言葉と、目の前の記録が繋がっていく。さらにページを読み進めると、ひときわインクが滲み、震えるような筆跡の一節を見つけた。
『ミサキちゃんが亡くなったあの日、私はたまたま非番だった。もしあの日、私が出勤していたら、あの子に声をかけていたら、何か変わっていたのだろうか…。ごめんね、ミサキちゃん』
書き手の深い後悔が、三十年の時を超えて、インクの染みとなって雪の胸に突き刺さった。
日誌を大切にバッグにしまい、雪は再び探索を始めた。ここから、デパートそのものが牙を剥くように、怪奇現象は本格化した。
スマホのカメラを回し、薄暗い通路を進む。
【スマホの録画データ:00:45:13】
(画面は激しく揺れ、雪の荒い息遣いと、早鐘を打つ心臓の音が記録されている)
止まっているはずの上りエスカレーターが、彼女の目の前で、ギ、ギギ…と錆びた音を立てながら、音もなくゆっくりと動き出す。その行き先は、闇に閉ざされた上の階。まるで、冥府への入り口のように、彼女を誘っていた。
婦人服のフロアに足を踏み入れると、そこには何十体ものマネキンが、闇の中に白い姿を浮かび上がらせていた。その中で、一体だけ、ひときわ異様な存在感を放つマネキンに目が釘付けになった。安っぽいピンク色のフリフリのドレスと、不自然に明るい金髪のウィッグ。それは、Vtuber「YUKI」のデフォルト衣装を、悪意を持って模倣した、グロテスクなコピーだった。
背筋が凍り、息が詰まる。
逃げるように、最上階の隅にある監視モニター室へ駆け込んだ。そこは、かつてこのデパートの神経中枢だった場所だ。壁一面に並んだ十数台のブラウン管モニターが、今はもう誰もいない売り場の風景を、ノイズ混じりの青白い光で映し出している。
その、一台だけ。中央に位置するモニターの画面が突然、激しい砂嵐に変わった。
ザーーーッ…。
次の瞬間。砂嵐が晴れ、そこに映し出されたのは、雪自身の背後だった。カメラは、今まさに雪がいるこの監視室を映している。
そして。
雪のすぐ後ろに、一人の少女が、ぬっと立っていた。赤いワンピース。おかっぱ頭。
雪は息を飲む。声が出ない。モニターの中の少女は、表情のない顔で、口をパクパクと動かしている。その唇の動きは、スローモーションのように、はっきりとこう言っていた。
『ハ・セ・ガ・ワ・ユ・キ』
彼女の、本名を。
「ひっ…!」
金切り声に近い悲鳴が漏れる。極度の恐怖に駆られ、雪は無意識に、震える声でYUKIの口調を真似ていた。自分を守るための、最後の鎧。
「い、今の見た…? 神展開、キタ…? なんちゃって…あはは…」
もはや、壊れた人形のように虚勢を張ることでしか、自分を保つことはできなかった。
足がもつれるようにして、再び中央階段へ向かう。あの場所へ行かなければ。すべての始まりであり、すべての終わりである場所。
事故があったという、4階と5階の間の踊り場。
そこに、少女がいた。セーラー服の後ろ姿。半透明で、向こう側の壁がうっすらと透けて見える。
「本物だ…!」
恐怖よりも先に、歪んだ歓喜が雪の心を打ち震わせた。これに会うために、私はここに来たんだ。
夢中でスマホを向け、その姿を写真に収めようとした、その時。
少女が、油の切れたブリキ人形のように、ギ、ギ、と軋むような音を立てて振り返った。
その顔に浮かんでいたのは、怒りでも、憎しみでもない。ただ、ひたすらに深い、深い、魂が凍るような哀しみの色だった。
しまった、と思った時には遅かった。彼女の聖域を、土足で踏み荒らしてしまったのだ。
背後から、小さな子供がしがみついてくるような、ずしりとした重み。氷のように冷たい何かが、背中に張り付く。直後、見えない巨大な力に鳩尾を強く突き飛ばされた。
「――ッ!?」
体が軽々と宙に浮く。世界がスローモーションのように、ぐるりと回転する。階段の手すり、汚れた壁、点滅する天井の照明。
そして、自分の右足首が、人間のものではない角度に、ぐにゃりと捻じ曲がるのがはっきりと見えた。
ドゴォッ!
熱い鉄の棒を突き刺されたような、鈍い衝撃が全身を貫いた。口の中に、錆びた鉄の味がじわりと広がる。
「ああああああああああああああッ!!」
自分の喉から迸った、本物の、獣のような悲鳴。
これはエンタメじゃない。ネタなんかじゃない。これは、現実の痛みだ。
雪は、あまりにも遅く、あまりにも手酷い形で、その事実を悟った。
【スマホの音声記録データより】
(激しいノイズと、雪の喘ぎ声、そして複数の音が混じり合って記録されている)
「…痛い……うぅ…助け…て…」
激痛で、その場から一歩も動けない。足首の骨が折れたのだと、すぐに分かった。
這うようにして進む雪を、物理的、そして精神的な恐怖が、ハイエナのように容赦なく追い詰めていく。
どこからか、少女のすすり泣きが聞こえる。ひっく、ひっくと、しゃくり上げるような悲しい声。
それと同時に、頭の中に直接響くように、あの忌まわしい声が聞こえ始めた。
『YUKIの住所特定したwww』
『明日、学校で会おうな』
『絶対に許さない。お前を社会的に殺してやる』
『死ね、死ね、死ね』
ネットの誹謗中傷の声。少女の悲痛な泣き声と混ざり合い、どちらが現実で、どちらが幻聴なのか、もう分からなかった。
手元で、落としたスマホの画面が明滅する。ひび割れた液晶に、泣き顔に歪んだYUKIのアバターが一瞬映っては、無慈悲に消えた。
内と外からの執拗な攻撃で、雪の精神は限界に達していた。
「いや…やめて…ごめんなさい…ごめんなさい…」
最後の力を振り絞り、雪は従業員用の通用口まで、床の冷たいタイルを爪で引き裂くようにして、血の跡を残しながら這って辿り着いた。出口だ。ここから出れば、この悪夢から逃れられる。
しかし。
ドアには、内側から錆びた太い鎖が幾重にも巻かれ、巨大な南京錠で固く、固く閉ざされていた。
絶望。それは、色のない、音のない感情だった。
その瞬間、ポケットのスマホが最後の力を振り絞るように、ぶるりと震えた。画面に映し出されたのは、一件のDM通知。あのアカウントからだった。
『今、お前の家の前にいるよ。出てこいよ、長谷川雪』
そのおぞましいメッセージの下に表示された、バッテリー残量0%の冷たいアイコン。それが最後の光となり、画面はふっと闇に沈んだ。
物理的な出口と、精神的な逃げ場所。その両方が、同時に、完全に失われた。
通用口の冷たい鉄の扉の前で、雪は崩れるように倒れ込んだ。
「う…ああ…あああああ…うわあああああん!」
嗚咽が止まらない。涙と鼻水と涎で顔がぐしゃぐしゃになるのも構わず、生まれて初めて、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
自分がネットのファンからされて、あんなに嫌だったこと。プライバシーを暴き、過去を詮索し、安全な場所から匿名で石を投げ、物語として消費すること。
それを、自分もやっていたのだ。ミサキちゃんという、声も上げられない、忘れ去られた死者に対して。
そのおぞましい事実に、骨身に染みて気づいた。自分は被害者なんかじゃなかった。加害者だったのだ。
その時、這った拍子に胸ポケットから、あの従業員日誌が滑り落ちた。
あるページが、黄ばんだセロハンテープで雑に貼り付けられている。それは一枚の色褪せた写真だった。
デパートの屋上で、赤いワンピースを着て、元気に遊ぶ少女。ミサキちゃんだ。その写真の隅に、小さく、まるで彼女を見守るように、忘れられた「お地蔵様」が映っていた。
日誌の最後のページを開く。そこには、ミミズが這ったような、震える文字で走り書きが残されていた。
『あの子が好きだったウサギのぬいぐるみ、せめてあのお地蔵様にお供えしてあげたかった…』
そして、祈りのような言葉が。
『いつか、誰か、あの子の魂に平穏を』
ミサキちゃんは、復讐したかったんじゃない。ただ、忘れられてしまった自分の悲しみに、誰かに気づいてほしかっただけなんだ。
その痛みに。その孤独に。
雪は、ようやく本当の意味で、彼女の魂に触れた気がした。
絶望の底から、雪はゆっくりと顔を上げた。涙はまだ頬を伝っていたが、その瞳には、か細くも確かな光が戻っていた。
逃げるんじゃない。償うんだ。
彼女の無念を晴らすために。そして、何よりも、自分の罪を償うために。
屋上へ行こう。あのお地蔵様のところへ。
雪は近くに転がっていたマネキンの腕を拾い上げ、それを松葉杖代わりにした。ひやりとした、命のないプラスチックの感触。
「…こんな偽物の腕に頼るなんて、今の私に、お似合いだ…」
自嘲の言葉を吐きながらも、雪は折れた足に全体重を預け、歯を食いしばって、ゆっくりと立ち上がった。脳天を貫くような激痛が走る。だが、もう彼女の心は折れなかった。
捻挫した足を引きずり、再び恐怖の中心である中央階段へと向かう。今度は、贖罪のために。一歩一歩、懺悔の道を歩むように。
屋上へと続く、最後の階段。デパートの悪意、あるいはミサキちゃんの悲しみが凝縮されたかのように、怪異は最高潮に達した。
壁から無数の黒い影の手が伸び、雪の足首を掴もうとする。上の階からは、今はもうないはずの屋上遊園地のメリーゴーランドの陽気な音楽が、不気味に、延々と響いてくる。
だが、雪にはもう、それが単なる怒りや悪意からくるものではないと分かっていた。これは、行かないで、と駄々をこねる子供のような、あまりにも悲痛なじゃれつきなのだ。
雪は、涙ながらに叫んだ。
「ごめん…! ごめんなさい、ミサキちゃん…!」
「あなたの寂しさも悲しみも、何も考えずに、自分のことばかりで…!」
「ネットで私がされたことと、全く同じことを、私はあなたにしてた…! 本当に、本当にごめんなさい…!」
一歩、また一歩と、祈るように階段を上る。その手には、道中、埃まみれのおもちゃ売り場の残骸から見つけ出した、片耳が取れ、薄汚れたウサギのぬいぐるみを、お守りのように強く、強く握りしめていた。
ついに、屋上へと続く、錆びた鉄の扉を開ける。
ひんやりとした、清浄な夜風が、火照った頬を優しく撫でた。屋上の隅に、お地蔵様は、三十年の時を経て、忘れられたように、それでも静かにそこに佇んでいた。
雪はお地蔵様の前にひざまずき、持ってきたウサギのぬいぐるみを、その足元にそっと供えた。
その瞬間。背中にずっと張り付いていた、氷のような冷たい気配が、ふっと霧のように消えた。
代わりに、どこからか温かい風が吹いてきて、雪の髪を優しく揺らした。
ありがとう。
微かな、ほとんど聞き取れないような少女の声が、風に乗って聞こえた気がした。
…でも、忘れないでね。
その囁きだけが、警告のように、あるいは約束のように、耳の奥にいつまでも残った。
東の空が、少しずつ、瑠璃色に染まり始めていた。
夜が明けた頃、巡回に来た警備員に発見され、雪は救出された。救急隊員に担架で運ばれる時も、彼女は松葉杖代わりにしていたマネキンのグロテスクな腕を、なぜかまだ強く握りしめていた。
その顔からは、かつての好奇心や傲慢さは消え失せ、他者の痛みを深く理解した人間の、静かで、澄んだ眼差しがあった。
後日。退院した雪は「YUKI」として、最後の配信を行った。
「今まで、本当にありがとうございました」
画面の向こうの、数万人のファンに向けて、彼女は静かに言った。
「私はもう、匿名の仮面を被って、誰かの物語を消費したり、されたりするのは、やめようと思います。現実で向き合わなければいけないことが、私にはできました。だから、YUKIは今日で、卒業します」
そう言って、雪が深く、深く、贖罪の祈りを込めて頭を下げた、その瞬間。
配信画面の隅に、一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、ノイズ混じりの赤いワンピースの少女の姿が映り込み、満足そうに、そして少し寂しそうに頷いて、静かに消えた。
もちろん、そのことに気づいた者は、誰一人としていなかった。
数年後。すっかり大人になった雪が、高層マンションが建ち並ぶ一角にできた、小さな公園を訪れていた。そこは、かつて銀星デパートが建っていた場所だった。
彼女の人生は、これからも続いていく。ミサキちゃんという名の少女の、「死者の記憶を語り継ぐ」という、静かだが、決して軽くはない責任と共に。空を見上げると、あの夜明けと同じ、優しい光が街を包んでいた。
あなたの物語を、私が語るまで ファントム @phantom2025
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