舟の行先

ゆいつ

掌編「舟の行先」

 鞍の裏から、ぬるりとした感触が肌に伝わる。

 サラは目を細め、降りしきる雨のなか、静かにそれを撫でていた。


 エルレインの人々が「雨舟(あまぶね)」と呼ぶ大きな生き物だった。

 随分と立派な名がつき、誰もがそれを受け入れているが、実際のところはただの蛞蝓である。綺麗に渦を巻く殻もない、ぬめる軟体の塊である。しかし、この国ではこれほど頼れる生物もいない。雨さえ降れば、舟は平時の三十倍もの速さで駆ける。音を立てることもなく、石畳も山道も颯爽と越えていく。


 サラは濡れた鞍の上に腰を下ろした。舟の背は今日も変わらずぬるく、彼女の心を落ち着かせてくれる。

 そうして、出発を察した雨舟は、微かに身体を波打たせた。少し長い旅の合図だった。


 行き先は、国境を越えた向こう――ソルダンとの間にある海だ。

 その波打ち際にて、サラは彼の灰を還すことにする。


***


 エリオは、ソルダンの出身だった。

 乾いた風の吹く国で育ち、戦争を機にエルレインへと渡った。従軍医であった彼は、兵士よりも子どもの亡骸のほうを多く見たという。


 「君の国には音がない。」

 ある夜、彼はそう呟いた。


 「雨の音はある。けれど、人の声が……沈んでいる。沈んで、そのまま帰ってこないみたいだ。」


 彼の言葉はとても短く曖昧であった。しかし、その奥には、枯れる寸前の熱が確かに窺えた。

 当時、エルレインの伝令兵をしていたサラには、彼の言わんとすることがよくわかっていた。言葉を運ぶ者は、消え入りそうな声の気配に敏いものだ。


 戦争が終わっても、エリオは故郷へと帰らなかった。

 エルレインの端に小さな診療所を構え、医師としての仕事の傍ら、彼は犠牲となった孤児の記録をひとりで書き続けていた。


 そうして、最後の務めを果たしたあと――彼はふと消えてしまった。

 遺されていたのは、サラに宛てられた一通の封書と、細い紐で丁寧に綴じられた紙束だけだった。


---------------

君の手で、これに火を灯してほしい。

僕の国では、蛾が魂を運ぶんだ。

彼らは火に寄って、小さな羽で風を読みながら、行くべき場所へと向かってくれる。

生きる場所は見つけられなかった。

でも、還る場所ならきっとあると思うから。

君の起こす風に乗りたい。

---------------


 蛾が魂を運ぶなど、サラには信じがたい話だった。しかし、エリオが本気でそれを信じていたことだけは理解していた。信じることの強さと苦しさは、彼の生き方が何より雄弁に物語っていたのだ。


***


 雨舟はぬめりの跡を引いて走る。

 その身体は、水気を含んだ大地の柔らかさを読むようだった。


 サラは鞍に伏せるように身を預けた。

 途中、木立の陰に蛾が一匹だけ止まっていた。白くて、小さくて、それはエルレインの雨に濡れていた。酷く弱々しい姿で、サラを見送るように羽を振っていた。


 辿り着いた海は灰色だった。

 雲も波も、全て同じ色に溶け込んでいた。遠くに青空があることを忘れてしまいそうになるほど、どこか閉塞感のある空気が漂っていた。


 サラは浜辺に薪を組んだ。

 火打ち石を手に取る指先は微かに震えていた。それでも、彼女は祈るように火花を落とした。


 ひとつ、息を吐く。

 火口は赤く染まる。煙がふわりと立ち昇る。

 

 やがて、東方のソルダンから数多の蛾が渡ってきた。

 白色。淡い黄色。そして、薄墨色の羽。一匹一匹が、サラの起こした炎の輪郭をなぞるように舞っていた。それは、随分と不気味で、エキゾチックで、威圧的で、何より幻想的な光景だった。


 サラは袋の口を解いた。

 彼の手で綴られた記録帳が中にある。苦しい時代の中、誰にも名を呼ばれることのなかったエルレインの子どもたち。その命の重みを丁寧に写し取った文字の群れ。

 ――そして、最後の頁には「エリオ」とあった。


 「あなたが覚えてくれたから、この子たちはここにいる。」


 記されたことのすべてを惜しむように目でなぞってから、サラは分厚い紙の束を焚き火にくべた。

 燃えやすい素材をあえて選んで書き付けていたのだろう。エリオが最期に遺したものは、彼女が想像していたよりもずっと呆気なく炎に呑まれていった。


 緩やかな風が吹いた。

 かつて名前であった灰が、静かに宙へと舞い上がる。蛾の群れは、それを目で追いかけるように飛んでいた。


 見上げた空は広かった。

 彼が還るには、きっと充分だった。


***


 火を見つめたまま、サラは静かに座り込んでいた。

 雨舟が寄ってきて、そっと、彼女の背中に触れる。ぬめりを帯びた体温が、今は何より温かい。


 「……あんたも、お別れ言ってあげて。」


 蛾たちは、やがて海のほうへと飛び去った。

 火の赤色と、優しい羽音の余韻だけが、そこに残されていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

舟の行先 ゆいつ @UltimateFechan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ