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 「私のことも、あのひとのことも、好きになんてなるもんじゃないわ。」

 美雨の声は、やさしかった。滉青が、これまでの人生で得たことのない優しさが、そこにはあった。だから、思わず縋りたくなったのだ。もう少しだけ、ここにいさせて、と。それなのに、美雨はそのやさしい声のまま、もう、出て行って、と、はっきりと告げた。

 もう少しだけ、ここにいさせて。

 言えなかった。それだけの言葉が、どうしても。誰かに情を寄せることがはじめてだったから、扱い方が分からなかった。だから滉青は、うん、と頷いて、ゆっくり立ちあがった。本当は、引き留めてほしかった。でも、美雨は当然なにも言わなかった。

 荷物なんて、ない。あるのはおんなや男の間を浮遊する、この身体だけ。

 滉青はそんな自分を、虚しいと思った。

 美雨とは、また会える。確実に、会えるのだ。ふたりとも根城にしているのは観音通りで、商売だって同じようなもの。これまでだって、しょっちゅう顔を合わせてきた。けれど、もう美雨は二度と滉青に、今日はうちにくる? とは言わないだろう。つまり、顔こそ合わせていても、全てが変わってしまう。すべてが変わってしまえば、今のこの美雨とは、もう二度と会えないのと同じことだ。

 「……さよならだね?」

 滉青が呟くと、美雨はいっそ儚いような白い頬で微笑み、頷いた。美雨も滉青と同じようなことを考えていると、はっきり分かる顔をしていた。

 ひとなんて結局、ひとりとひとり。どんなに一緒にいても、ひとりとひとり。

 滉青はこれまでずっとそう思ってきたし、だから寂しくなんかなかった。でも、美雨と函崎を知ってしまうと、そうも思っていられなくなる。あのふたりは多分、もつれにもつれ、苦しみながらもその意味で、ふたり絡み合ったままなのだ。

 なにも持たず、重たい身体だけ引きずって、いつの間にか肌が馴染んでいた美雨の部屋を出る。観音通りへ出て、適当なおんなか男に声をかけて、今日の宿を用意しよう。大丈夫。慣れている。簡単なことだ。

 自分に言い聞かせながら、階段を下り、細い道を抜け、観音通りのメインである街灯の下へ出る。

 やっぱりなんだか、身体が重い。今日はもう、新規の飼い主を見つけて丸め込んで部屋に上がり込むという手順を踏む気になれない。誰か、馴染みの顔を見つけなくては。

 そうぼんやり思いながら歩いていると、瑠璃色の身体に張り付くようなワンピース姿のおんなに、つい、と手を引かれた。

 「滉青! どうしたの? 顔色悪いよ?」

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