2話 安全な入れ物
数日は経っただろう。
右の頬に残っていたあざは、もう消えていた。
回復しだが、頬を触ったときの、あの確かに殴られた感覚だけは、なぜかまだ残っていた。
いのりは診察室にいた。
白すぎる壁。光を吸わない天井。
寒さのような無音のある白い空間で、今日もまた椅子に腰を下ろしている。
無表情のまま午前の診察に入っていく。
最初の患者は、笑いながら泣いていた。
その次は、ずっと何も喋らなかった。
その次は、自分が「既に死んでいるかもしれない」と主張し始めた。
作業は続く。
淡々と、正しく、意味なく。
感情のこもっていない言葉を話しながら
これが、本当に必要な仕事なのだろうか。
問診票をめくるたびに、そう思う。
カルテの記録ボタンを押すたびに、また思う。
「お大事に」と笑顔で言うたびに、言葉の重さをまったく感じない自分に気づく。
ふと思う。
このやり取りに、必要という名の重みはあるのだろうか。
誰かが救われた痕跡を、今日、自分はどこに感じた?
診察が終わった後の患者の背中は、誰一人として軽くなってはいなかった気がする。
「なんでこの仕事にしたんだろう…」
モニター越しに映る、疲れきった自分を見て呟いた。
自分は、壊れていく、もしくは壊れた人間たちの「安全な入れ物」になっているだけなのではないか―
そんな疑念が、今日もまた小さく心の底で膨らんでいた。
午後の休憩時間。
4階 カフェテラスのベンチに腰掛け、いのりは紙コップの水を指先でゆらしていた。
風はほとんどなく、濁った青空に白い雲がぼんやりと遠くで浮かんでいるだけだった。
「地蔵のような顔だな」
不意に、背後から渋い声がした。
振り向かずとも、声でわかる。
須川連。精神科の主任医師にして、自分のの上司。
70を超えてなお現役の臨床医。
白衣の上にグレーのジャケットを羽織り、手にはブラックコーヒーの缶。
いのりの隣に勝手に腰掛けると、少しだけ身を傾けて言った。
「患者にまた殴られたと聞いたが、大丈夫だったか?」
「骨は丈夫なので…大したことなかったです。」
「ならよかった」
いのりは紙コップの水が左右に揺れているのを、何となく眺めている
老眼鏡を額に引っ掛けたまま、ぼそりと呟く。
「最近のお前、顔が死んでおるな。幽霊より色がない」
「失礼ですね」
「褒めておる。精神科医としての深みが出てきたということだ」
「……深みって、こういうものなんですか?」
「知らん。わしもようわからん。ただ、歳を取ると、何が正しいかわからなくても、目の前の人間は救わにゃならんという感覚だけは残る」
いのりは、胡散臭いタヌキ顔と目を合わせた。
こういうときの須川は、いつも本音と皮肉が入り混じっている。
その塩梅を読むのが難しい。
「お前、このごろ入れ物みたいな顔しとる」
「入れ物……?」
「中身のない器みたいなものだ」
いのりは黙った。
「精神科医というのはな、誰かを壊させないための入れ物になる職業だ。中身より、器の丈夫さが問われる。だが、長くやればやるほど、何も入っていない器が一番安定すると気づく」
「……そうですか」
いのりは、紙コップの底を見つめた。
水はもう、ほとんど残っていなかった。
「で、なんですか。今日はなにか薬でも勧めにきたんですか?」
「最近、面白いプロジェクトが進んどる。」
須川は飲みきった缶を置き、須川は懐から、例の白い端末を取り出した。
光沢のない質感。中央に青く浮かぶロゴ。
白く光る画面に「Eden-Pilot」と刻まれている。
「これは、政府と精神医療開発庁が共同でやってる試験的な治療。死者との再会を前提に設計された意識干渉プログラム。通称 エデン」
「……天国ですか?」
「記憶と意識の統合を機械にまとめさせ、死者との擬似的再会を可能にする。」
いのりは、テーブルの上に置かれた端末をしばらく見つめたあと、ふと小さくつぶやいた。
「……どうして、私に見せるんですか、もっと有益になるような方がたくさんいるのに」
「人の壊れ方には、二通りある。一つは、中身が壊れて音を立てて崩れるやつ。もう一つは、音も立てずに、外側だけ残して溢れかえるやつだ」
須川の声に感情はなかった。
ただ、いのりの心を、見抜く者の声だった。
「お前は、後者だ。
外から見れば何も問題ない。仕事もこなす。誰より正確だ。……だがな、中身がもう、ほとんど溢れかえってとる」
いのりは言い返せなかった。
ただ黙って、テーブルに置いてある白い端末を見つめ続けた。
時間だけが流れていた。
いのりは、ぽつりとつぶやいた。
「……こんな簡単なものが、精神治療に繋がるんですか」
須川は缶コーヒーのフタをいじりながら、いのりの顔は見ずに答えた。
「治療ではないかもしれないな。でも、お前は今、どこかで限界を知っている顔をしておる、この世界に疲れた時、目を閉じて、向こう側を見ることは、罪ではない」
「精神的負荷が蓄積しすぎてる医師には、意外と向いてると思うが、被験者になってみるか? 」
「あっちの世界で、一度、誰かと話してみるのも悪くない」
いのりは、一瞬だけ表情を失った。
いのりは視線をそらした。
遠くの雲を見ているふりをしながら、答えない。
「はいこれ、 簡単な計画書じゃ」
須川は座っているいのりに、一枚の紙を渡した。
エデン計画
仮想死後空間との安全接続による精神修復実験
被験者の記憶・感情・言語反応・既知人物データを統合し、
擬似的再会を実現する精神干渉プログラム。
――
無機質な説明文。だが、そこに一文だけ、どうしても、視線が戻ってしまう行があった。
――深度レベルにより、故人は、あなたにとっての最も自然なかたちで現れます――
最も自然なかたち。
それはたぶん、笑っている13歳のあの子だ。
病院のベッドではなく、夏の夕暮れの帰り道。
歩道橋の上で、買い物袋を抱えながら
「お姉ちゃん、疲れたー」
「うるさい… あんた何も持ってないのに言わないで」
「しょうがないなー、ほらお姉ちゃん一緒に頑張ろ〜! 」
と一緒に抱えたあの夏。セミの音。アイスの甘ったるい匂い。そして、もう触れられない指先の記憶。
呼吸は、少しだけ速くなっていた。
まぶたの奥が、かすかに熱を持ち始めていた。
そんなことが、もし本当にできるなら――
もし、ほんの一度だけでもいいのなら―
会って、話せるのなら。
それだけで、自分はもう十分なのかもしれない。
「……やります」
声は、思っていたよりも冷静に出た。
「本当にやるのか?」
いのりは須川の目を見てただ深く頷いた。
「ならひとつ・・・・・・話しておかねば、ならんことがある」
須川は淡々と告げた。
「先に、二人試しているが、二人とも数日以内に死んだ」
「……どうゆうことですか?」
いのりの声は震えていた。わずかに、だが確実に
「現実ごと、楽園に喰われてしまったんじゃ」
パラダイス・リターン 破顔 @6mRWoQOkh
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