暗号機器のその先

わんし

暗号機器

画面は暗闇から始まり、かすかに響くタイプライターの音。乾いた打鍵音が静寂を破る中、低く重厚なナレーションの声が流れ出す。


「――すべては、信頼から始まった。そして、裏切りがそれを終わらせた。」


1940年代後半。第二次世界大戦の爪痕がなお世界を覆う頃、スイスの山間にある静かな町ツークで、一つの企業が静かに産声を上げた。


社名は「クリプトAG」。創業者はボリス・ハーゲリン。スウェーデン生まれの技術者であり、戦中には連合国に暗号機器を供給していた経歴を持つ。


彼の設計した暗号装置、M-209はアメリカ軍でも採用され、彼の名は一部の通信技術者の間で神話と化していた。


戦後、彼は中立国スイスに腰を落ち着け、小さな工房で新たな暗号機を設計し始める。それが後に、世界を巻き込む秘密の入り口になるとは、誰も想像しなかった。


1950年代初頭。スイスの山に囲まれたクリプトAGの工場では、日夜CX-52と呼ばれる新型の暗号機器が組み立てられていた。


堅牢な構造、美しいスイス製の歯車。そして何より、通信を安全に守る「信頼性」が売りだった。


だが、その裏では別の動きが始まっていた。


アメリカ・ワシントンD.C.。CIA本部、ランリーの地下階。冷たい蛍光灯の下、重厚なスチールデスクを囲む一団があった。部屋の空気は煙草の煙と緊張で満ちていた。


「こいつを使えば、世界中の会話が聞こえるかもしれん」と、ある職員が言った。机の上にはCX-52が置かれている。


暗号を解くためには、乱数の生成方式、初期設定、キーの管理すべてが重要だった。


だが、この機器の仕組みに「裏口」があればどうだろう?


それを設計段階から仕込めば、たとえ相手国が独自にキーを設定しても、アメリカだけはその鍵を知っていることになる。


つまり、世界各国が自国の秘密を打ち込むたび、その声がワシントンに届く。


NSAとCIAは、計画を秘密裏に進めるために、ドイツの情報機関BNDと接触。


共謀の果てに、1970年――クリプトAGを575万ドルで買収するという大胆な策を実行に移した。


表向きは合法な企業買収。だが、実際にはスパイ活動のための隠れ蓑。買収作戦にはコードネームが与えられた――「Thesaurus」。


その後のクリプトAGの進化は目覚ましかった。

CX-52を超える高性能な機器が次々と開発され、世界中の政府、軍、外交官の手に渡っていく。


イラン、アルゼンチン、インド、パキスタン、そしてリビア。誰もが「中立国スイスの製品」を信じ、疑わなかった。


そして1970年代初頭、ついにその計画は完成する。


バックドア――乱数生成のアルゴリズムに隠された罠。


設計はAT&Tベル研究所出身の暗号専門家が担当し、見た目や構造はまったく正常なまま、ある特定のキーの組み合わせで「解読可能な暗号」が生成されるよう細工された。


クリプトAGの営業部門すら、この事実を知らされていなかった。


販売員たちは心から自社製品の信頼性を信じ、世界中で契約を取り付けた。その純粋な信頼は、CIAにとって最も効果的な偽装だった。


そして、最初の成果は1979年。


イラン人質危機。アメリカ大使館の職員52人が拘束された事件で、CIAはイラン政府の内部通信を事前に察知し、対応策を練ることができた。


「通信が、嘘をつかない限りな」と、CIAの担当官が冷たくつぶやいた。


クリプトAGは、世界の安全を守る「盾」ではなく、アメリカの耳として成長していく。その真実を知る者は、ごく一部だった。


1980年代に入り、冷戦はますます深まっていた。核の均衡と情報の戦いは表も裏も激化し、誰もが「一歩先を読まなければ、次はない」と信じていた。


スイス・ツークのクリプトAG本社では、日々暗号機の新型開発が続いていた。


だが設計図の奥には、誰にも知られぬ「余白」が存在していた。そこにこそ、CIAとBNDが仕掛けた「知る者のみの通路」が存在する。


バックドア付きの暗号機器は、外交文書、軍の司令、経済交渉、果ては愛人への連絡までも吸い上げた。


だが、その事実はあまりにも巨大だったため、世界は気づかないまま日常を過ごしていた。


1982年、南大西洋――フォークランド戦争。


アルゼンチンとイギリスが争う小さな島々の覇権争い。だが、戦場の裏では情報の奪い合いが繰り広げられていた。


アルゼンチン政府が使っていた暗号機も、当然クリプトAG製。通信はほぼリアルタイムでGCHQ(英政府通信本部)に筒抜けだった。


「アルゼンチン軍の艦船が次にどこに向かうか、それは既にロンドンに知られている」


そう言った英海軍士官の表情は、冷たい硝子のようだった。情報はミサイルより速く、正確に相手を仕留める。


続く1986年、西ベルリンで起きたナイトクラブ爆破事件。


米軍兵士や市民を巻き込んだこのテロの背後に、リビア政府が関与していることをCIAは即座に把握していた。


なぜなら、リビアもまた、クリプトAGの顧客だったからだ。


「彼らが考える前に、我々は答えを持っていた」


とCIA分析官は語る。


だが、すべてが順風満帆ではなかった。


1992年、イラン――。


ある男が逮捕される。彼の名はハンス・ビューラー。クリプトAGの営業担当であり、イランにて機器のメンテナンスを行っていた。


イラン政府は不審に思っていた。通信がなぜか常に傍受されているように感じられる。そして、ついに気づいた――この機器に何かがある。


イランの革命防衛隊により拘束されたビューラーは、長時間の尋問と投獄を受ける。


彼自身、何も知らなかった。だが、それこそが闇の同盟の巧妙さだった。


「私たちは本当に正義のために働いていたのだろうか…」


後年、釈放されたビューラーが語ったその言葉には、長く伸びる影があった。


この事件で、世界はようやく違和感を覚え始める。


スイス政府も動き出し、クリプトAG内部に調査の目を向ける。だがCIAとBNDはすでに先を見据えていた。


1993年、ドイツ・ボン。


BNDは手を引いた。CIAに全株を売却し、Rubicon――新たなコードネームで作戦は続行される。


ルビコン川を渡るとは、「後戻りできない決断」を意味する。


CIAは単独でこの帝国の主となり、さらに深く世界の通信網に潜り込む。その先には、インターネットという新たな情報の海が待っていた。


1995年、ワシントンD.C.。CIA本部内の電子監視部門「Special Collection Service(SCS)」では、ルビコン作戦の成果が日々の会議で報告されていた。


「ペルーの選挙管理委員会の通信は、全て解読可能です」


「エジプト軍の戦術教本は、暗号機の診断ログから既にPDF化済みです」


分析官たちは、まるでテレビ番組でも見るように、各国政府のやり取りを映し出していった。映像はなくとも、暗号は言葉の記録であり、国家の心臓そのものだった。


そして、世界は21世紀へと足を踏み入れる。


2000年――。


戦争の形が変わった。爆撃機や戦車よりも、ネットワークと通信が主戦場になる時代。


だが、CIAはまだ「古典的手法」で優位に立っていた。クリプトAGが提供する機器はデジタル化され、見た目は最新鋭だが、バックドアは変わらず埋め込まれていた。


「新型のKEYGEN-75型機、チュニジア向けに出荷完了しました」


「ハッシュアルゴリズムには、従来どおり疑似乱数偏差を含めています」


この“偏差”こそが、解読の鍵だった。表面上は安全な暗号でも、生成されたキーのゆらぎから逆算できるように調整されていた。


CIAは、国家ぐるみの“暗号犯罪者”と化していた。


だが、時代の波は止まらない。


2010年代に入り、エシュロン、PRISM、XKEYSCOREといった、より先進的な監視プロジェクトが登場する。


インターネットが通信の主流となり、各国はVPN、PGP、RSAといったデジタル暗号技術に依存するようになる。


クリプトAGの機器は、やがて「時代遅れ」と言われ始めた。


2015年、CIA内部でも議論が起きる。


「Rubiconを継続する意味はあるのか?」


「もはや国家機密は、ハードウェアではなく、クラウドとソフトに移った」


2018年、決断が下される。


クリプトAGの商標は静かに消され、事業は解体。全資産は売却され、工場は閉鎖された。ルビコン作戦、終結。


一人の元CIA作戦官が呟いた。


「人類史上、最も成功した情報操作の一つだったな…」


彼がそう言ったその瞬間、彼の胸の内には誇りと、同時に拭えぬ疑問があった。


果たして、我々は「勝った」のか?


それとも、信頼というものを永遠に失ったのか?


2020年2月、世界は眠っていた。

この日、ワシントン・ポストとドイツZDF放送局が共同で発表した一つのスクープが、長年沈黙を保っていた水面を割った。


記事のタイトルはただ一言。


「The Intelligence Coup of the Century」――世紀の諜報クーデター


そこに記されていたのは、Rubicon作戦の全貌だった。


クリプトAGはCIAとBNDによって密かに運営されており、その機器にはバックドアが仕掛けられていたこと。


世界中の政府や軍、外交機関の秘密が、半世紀にわたり盗聴され続けていたこと。


そして、その作戦名が「Thesaurus」、後に「Rubicon」へと変わり、冷戦から21世紀の戦争までを裏から操っていたという事実。


世界は驚愕した。


スイス政府は慌てて調査委員会を設置。

かつて「中立国」の看板を掲げていたこの国が、知らず知らずのうちに世界の諜報工作の拠点になっていたことに、深い衝撃を受けた。


イラン政府は激怒し、かつての社員拘束問題を再燃させる。


メキシコ、サウジアラビア、インドネシア、エジプト、果てはバチカンまでもが、自国の秘密がCIAに渡っていた可能性を疑い、情報機関の再構築を始める。


アメリカ国内では議会が動いた。

上院情報委員会はCIA長官を召喚し、Rubiconの詳細な報告を要求。


民主主義国家が、他国の信頼を裏切る構造を半世紀にわたって維持していたことへの倫理的疑問が突きつけられる。


かつて作戦に関わった元CIA職員、リチャード・ヘインズは匿名でこう語った。


「我々は“国家の安全”という名目で、世界のあらゆる会話を覗いた。」


「でもその代償に、我々は『信頼』という概念を殺したのかもしれない」


だが、その一方で、情報機関の内部には冷笑があった。


「信頼? 国家間にそんなものがあるとでも?」


作戦の成功は揺るがなかった。Rubiconは、情報の絶対的優位をアメリカに与えた。


ベトナム戦争、フォークランド戦争、イラン・イラク戦争、湾岸戦争…。その裏で、無数の通信が解読され、戦略に組み込まれていた。


真実は、ずっと見えていたのに、誰も気づかなかったのだ。


そして、Rubiconが暴露されたその年。

NSAは新たなプロジェクトを静かに始動していた。


AIによる暗号分析。


ディープラーニングによって生成された暗号鍵をリアルタイムで逆算し、各国の5G通信、衛星通信、暗号化メッセージアプリを“合法的に”傍受する計画。


Rubiconの次なる姿が、すでに胎動を始めていた。


CIA元職員エリック・ノーブルは、2021年の春、メリーランド州の自宅にひっそりと暮らしていた。


Rubiconの名が世界に晒されてから1年。

彼の名前は報道には出なかったが、作戦の設計段階に深く関わった人物のひとりだった。


地下室には今も、古びたCX-52の実機が残されている。


手動レバーでローターを回すと、金属の擦れる音とともに、冷戦の記憶がよみがえる。


「俺たちは、最初は正義のためにやっていた。

 だが、いつの間にか『監視』が目的になっていた。」


「それに気づいたときには、誰も止められなかった」


老いた手が機器に触れる。埃の積もったパネルの奥に、彼は過去の自分を見る。


彼はふと、90年代後半、NSAの会議室で交わされたある会話を思い出した。


「この技術は倫理的に問題があるのでは?」


「世界を救うための小さな代償だよ」


その「代償」は、小さくなどなかった。


各国の政府関係者が、外交官が、反体制派が、

家族への手紙までもが傍受され、分析され、武器にされた。


「信頼」は破壊され、「主権」は情報という見えない手でねじ伏せられた。


ノーブルはソファに腰を下ろし、テレビをつける。


ニュースでは、次世代量子暗号の国際標準化会議が話題になっている。


「ポスト量子暗号による、真に安全な通信を実現するため、G7諸国は、2025年までに新暗号基盤を導入する予定です」


しかし、ノーブルは知っている。

どんなに進化しても、人間が関わる限り、どこかに“裏口”は作られる。


AIが通信を守り、AIがそれを破る時代。


Rubiconは終わった。

だが、「Rubicon的なもの」は終わらない。


彼は立ち上がり、地下室の照明を消した。

暗闇の中で、古びたCX-52の金属が微かに冷たく光っていた。




エピローグ

2023年、ウィーン。


国連の会議室にて、各国の情報機関OBたちによる非公式セッションが開かれていた。


議題はひとつ――「信頼と暗号技術の未来」


スイス代表の老女が静かに語った。


「クリプトAGはもうありません。」


「けれど、世界中の新興企業が、新たな“安全”を売り込んでいます。」


「いずれ、また誰かが同じ扉を叩くでしょう。」


「違う顔と、違うコードネームで」


隣に座る元NSA技術主任が頷いた。


「Rubiconの本質は“覗き見たい欲望”だ。」


「それがある限り、どんな技術も安全ではない」


沈黙が流れた。

会場の外では、スマートフォンを操作する若者たちが、暗号化アプリで日常を語り合っている。


それを、本当に誰も見ていないと、誰が言えるのだろう?


画面の前のそこの君のスマホ、PCもね。

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暗号機器のその先 わんし @wansi

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