第28話 一人目

家の前で渚と別れた優悟は悶々とした気持ちを抱えたまま帰路についた。


(本当に晴馬...助かるんだよな...?)


頭の中で晴馬の声が未だに反射していて、離れない。


本当に追い詰められた人間にしか発することが出来ない、狂気すら孕んだ叫びは、ただでさえ弱っている優悟の心に更なる穴を開けると共に、「晴馬は助からないのではないか」という猜疑心すらも抱かせていた。


「...ただいま~」


玄関を開け、廊下の明かりを付けると共に、優悟は自分の鞄を自分の部屋の前目掛けてボーリングよろしく滑らせる。小学生になりたての頃ランドセルを同じように飛ばし、結果あっという間に廊下のフローリングを傷つけ、両親にこっぴどく叱られて以降固く禁じられている行為だったが、気を紛らわしたい一心で、優悟の体は勝手に動いていた。


「おかえりなさい~。遅かったわね。今日部活無い日でしょう?」


リビングから母の声が響く。ケチャップの焼ける良い匂いが玄関まで届いてくる。母が夕飯の支度をしているのだ。


夜中に、畳んだ携帯ゲーム機を開く音を耳敏く聞き付け「夜更かしするな」と部屋に突撃してくる母が廊下を鞄が滑る音に反応しなかったのも、料理の音に掻き消されたからだろう。


「友達とカフェでだべってた」と適当な嘘を吐き、優悟は自分の部屋に入る。同級生の知人とはいえ、知らない大人に会っていたと正直に伝えて何を言われるか分からないので本当の事は言えなかった。


ドアの前の鞄を部屋の中に蹴り入れると、優悟は制服も脱がずにベッドに飛び込んだ。その衝撃で今朝まで読んでいたマンガが飛び跳ねる。


「はぁ...」


心に溜まった、溶けた鉄のように重たいものを吐き出そうとするかのように、優悟はそれは長い溜め息を吐く。仰向けになって天井を見上げると、もう暗いにもかかわらず天井の染みがくっきりと見えた。


ピロン!


暫く微睡んでいるとポケットの携帯からトークアプリの通知音が鳴った。優悟は寝転んだままもぞもぞと身体をひねらせて携帯を取り出す。


そしてメッセージの送り主を見てほんの少しだけ眠気が飛んだ。


(下川からだ...)


「勝手に友達追加ごめんなさい!今日は一緒に来てくれてありがとう!」というメッセージの上には「下川渚」の名があった。今までアプリ上で会話した事が無い為、「友達では無いユーザーからのメッセージです」というアプリの警告文がくっついている。


返信する為に友達登録を完了し、いざキーボードを開いた時、優悟は相手が晴馬の彼女である事を思い出して指先を画面から離した。


「何て返せばいいんだ...」


加えて渚とはクラスのグループチャットで雑談したりはおろか、何かの委員会で事務的な連絡すら取ったことも無い。


そんな相手に易々と馴れ馴れしいメッセージを送る訳にもいかず、悩んだ挙句に「こちらこそありがとう」という、エクスクラメーションマークすら付いてない極めて無機質な言葉を選んでしまった。まるで「これ以上貴方とは会話したくありません」と告げているかのようだ。


流石に無愛想だと思い、優悟は最近買ったマンガのスタンプで、作中登場するヒロインが「ありがとう」という言葉と共にお辞儀をしているものを急いで送った。


数分後、渚から返信が来る。



大久保君ブレイズオレンジ読んでるんだ。めっちゃ面白いよね!



捕まえた野菜泥棒を電気柵に括り付けて気絶寸前まで追い込む話とか、不謹慎だけどすごい笑っちゃった!



スタンプへの予想外のリアクションに、優悟の眠気は更に薄れる。


「ブレイズオレンジ」というのは丁度優悟の足元に転がっているマンガのことだ。就活が上手くいかず鬱を発症してしまった大学生の主人公が療養の為に北海道の祖父母の家に住む事になり、そこで農業と猟師をしている祖父や地域の人々と触れ合う内に野生動物と命のやり取りをする猟師という仕事に興味を持ち始める...というストーリーで、タイトルも猟師が身に着けるハンタージャケットの色から来ている。


命というものを考えさせられる重厚な内容だけでなく、北の大地の動植物や農業、狩猟に関する専門的な知識とそれらを笑いに落とし込んだギャグがSNSで話題になり一気に人気作となったのだが、下ネタやグロテスクな描写もかなり登場する為、渚のような女子が読むようなマンガでは無いと優悟は思っていたのだ。


「へぇ...。下川みたいな女子もブレイズオレンジ読むんだ...」


そこからはもう、優悟は会話で考え込むことは完全に無くなった。互いに推しのキャラクターや好きなシーンを話している内に、トークの総量は数分足らずで、数回スクロールするだけでは始めの「こちらこそありがとう」に戻れない程になっていた。



ごめん!そろそろ最寄り着くからマンガの話は一回止めにしていい?



作中に登場するジビエ料理について語っていたところで、そんなメッセージが届いた。優悟は「りょうかい」と返す。



ありがとう!それでメッセ送った理由なんだけどさ



今週の日曜に篠宮さん誘ってご飯行かない?



篠宮さんが居なかったらもう二度と杉内君と会えなかったかもしれないし、絶対お礼しなきゃって思うんだ



優悟は再び指を止める。


そうだ、下川の言う通りだ。晴馬の事、いや、彼を想う自分の心を世話するのに手一杯で大事な事をすっかり忘れていた。篠宮が居なければ松原が澱神の存在に気付く前に、晴馬は手遅れになっていたかもしれないのだ。


それなのに自分は今日車から降りた時、篠宮に別れの挨拶すらろくにしなかった。篠宮本人がそそくさと帰ってしまったとはいえ、このまま何もせずに成り行きを見守るだけでは無礼が過ぎる。


優悟はその事実に気付けなかったどころか、そんなこと気にもせずに能天気に好きなマンガの話をしていた自分が恥ずかしくなった。そしてそう感じた以上、取るべき選択肢は一つだ。



         日曜は部活あるから午後からになっちゃうけどそれでも大丈夫?



大丈夫!私も篠宮さんも一日いける



       りょうかい!じゃあ篠宮へのお礼は飯代俺達が奢るってことでおけ?



おけ!



二人で篠宮に奢る事がとんとん拍子で決まった時、リビングから母の


「そろそろご飯だからお風呂入っちゃいなさーい」


という声が聞こえる。兄は既に引退しているが、兄弟揃って運動部で年がら年中汗臭い状態で帰宅するせいで、大久保家では夕飯の前に入浴することが基本となっている。



                  ごめん母さんが風呂入れって 一旦抜けるね



りょ。私も次で最寄り



後で集合時間とレストラン決めよ!グループ作るね!

                               


再度「ありがとう」のスタンプを送った直後、画面の上にグループチャットへの参加を知らせる通知が来た。


参加者一覧を開き、バスケットボールのアイコンとスパイクシューズのアイコンの間にある、欠伸をする猫のアイコンを見て、優悟はこれが篠宮のアカウントなのだと初めて認識した。クラスのグループにも彼女の名前自体はあるのだが雑談とかに参加することは皆無な為、無理も無い話だ。


篠宮を友達に追加した後にスマホの画面を消し、もう一度天井をぼんやりと眺めた。天井の染みは相変わらずいやにくっきりと映る。しかし先程とは打って変わって胸を押さえつけられるような息苦しさは殆ど無く、代わりに「晴馬はきっと助かる」という根拠の無い、しかし春の陽気のような温かさを伴った楽観が優悟を満たし始めていた。


不思議な感覚だ。晴馬のことについて平先輩や同級生の男友達とどれだけ話しても心の穴が埋まることは無かったのに、たった数分、それも文字のみのやり取りをしただけでこんなポジティブになれるなんて。


ほんの短い間とはいえ、晴馬の事を忘れて好きなマンガの話をしたからだろうか。勿論それもあるだろうが、優悟はそれ以上の、何かよく分からない力が作用したような気がしてならなかった。


「ちょっと優悟聞いてるの~?聡が塾から帰ってくる前に早く入っちゃいなさい~」


催促の声が届く。優悟はそれに直ぐには応えず、天井を見つめたまま穏やかに微笑み、こう呟いた。


「晴馬、俺分かるよ。お前女を見る目あるわ。下川の事、絶対大事にしろよ」


何様だよお前、と笑いながら自分の発言に自分で突っ込んだ優悟は母に「今入りま~す」と生返事をして風呂場へと向かった。こうやって自然に笑うのも、随分久しぶりな気がする。


洗面台の前で優悟は制服をゆっくりと脱ぐ。父親がスーツや制服のような、冠婚葬祭に用いる衣服の扱いに人一倍口うるさいお陰で大久保家の子供達は着脱の時でさえ制服には気を遣わないといけない。


服と下着を洗濯機の中に入れ、優悟は浴室に入る。湯船に入る前に身体を洗った後、優悟は浴槽の蓋に手をかけた。その時不意に、昼間の篠宮の発言が彼の頭を過ぎる。



澱神は池や水溜りみたいな、その場に留まって動かない水に干渉するの



目の前にある、蓋越しに熱気を伝えてくる湯舟はまさに、「その場に留まって動かない水」そのものだった。中腰の姿勢で優悟はぴたりと動きを止める。


(いや落ち着け。澱神は今晴馬を殺すことに集中しているんだ。俺のとこなんかに来るはずが無い)


今日の出来事があまりにも非現実だったので、つい考えすぎてしまったのだ。そう思った優悟は直ぐに両手に力を入れ直し普段と何も変わらずに、蛇腹の蓋を開け放った。


「...は?」


思考が、一瞬にして麻痺した。ほかほかと湯気を立てる、浴槽に満たされたお湯は、昼間のコップのように、真っ茶色に濁っていた。


「...は?」


その場から逃げることも、悲鳴を上げることも出来ずに、優悟はその場に立ち尽くして温められたその泥水を見つめていた。その時である。


ザバアッ!!という激しい水飛沫と共に、浴槽から異様に長い女の両腕が飛び出し優悟の頭をがっしりと掴むと、そのまま彼を浴槽の中へと引きずり込んだ。


一瞬にして呼吸が出来なくなる。その苦しさが麻痺した優悟の脳を再稼働させる共に恐怖を彼に与えた。湯から顔を出そうと優悟は文字通り必死に身体をよじるが、まるで頭と掌が一体となったかのように、女の手は微動だにしない。


暴れて体内の酸素を消費してしまったせいで意識が急速に薄れていく。ただでさえ暗い視界が更に狭く朧げになってくる。


(あ、俺死ぬ)


いやに冷静になってそう考えたその時、底の見えない浴槽から伸びている両腕の間から、女の顔が急に現れ優悟の眼前に迫って来た。決してそこにあるべきではない、蛙の瞳をらんらんと煌めかせて。


女に顔を凝視された瞬間、優悟は完全に意識を失った。

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