第7話 手水舎の怪
「あ、待って。鳥居の前では一礼するんだ。出る時も忘れずにね」
「え...」
何気なくそれを伝えた時、境内前の、もう一つの鳥居の前で渚はぴたりと足を止める。彼女が先行していたせいで、晴馬はつんのめるようにして足を止めた。
「待って。私達、最初の鳥居で礼なんてしてない...」
渚は晴馬の手を放すと、晴馬の顔と奥に佇む大きな拝殿を交互に見、そしてこう訊ねて来た。
「杉内君。変な事聞くけどさ。私達このままお参りしても大丈夫...だよね?」
晴馬は、その問いの意味が分からなかった。
「えっと、それって...どういう意味?」
渚は晴馬の身体越しに、もはや見えなくなった鳥居の方向を指さす。
「さっき入り口の鳥居を通った時、鈴の音がしたって杉内君言っていたでしょ?それってもしかして、神様が怒ってそんなことしたんじゃないかって思ったんだ」
渚は続ける。
「さっきの杉内君の顔、何かに憑かれたみたいで凄く怖かった。私そんなに迷信深いわけじゃないけど、それでもあんなことがあった後にお参りなんてしたら返って逆効果なんじゃないかって思うんだ...」
「それは...」
晴馬は渚と共に、暗い影を落とし始めた境内を見つめる。晴馬は生まれて初めて、慣れ親しんだこの神社が何か得体の知れないもののように感じた。
あくまで礼節を重んじることを主軸に置いているだけで、そこに祀られていたり、眠っている存在に特別詳しい訳では無い晴馬だが、それでも幼い頃から知っている上に全国でもそれなりの知名度を持つこの神社の神様の情報はしっかりと持ち合わせている。
秋山神社。そのご祭神は
「それじゃ、止めにする?下川がそう言うのなら俺は構わないよ」
困惑した様子の渚を見て、晴馬はそう告げた。きっと彼女は晴馬が経験した現象そのものは勿論のこと、このまま神様に無礼を働いた状態で合格祈願をしてしまったら、返って兄の受験の成功を邪魔してしまうのではないか、ということを心配しているのだろう。それなら、彼女にはここで引き返して貰ったほうが賢明かもしれない。
「う、うん。そうしようかな...。本当にごめんね...。ここまで付き合って貰ったのに」
渚は鞄を足元に置くと、晴馬に深く謝罪する。
「ううん、気にしないで。今日は特に予定無かったし。それに、ほら!付き合って初めてカップルらしいこと、出来たからさ」
また無意識の内に恥ずかしい発言をしてしまい、晴馬は顔を赤くする。一方それを聞いた渚も同じように頬を紅潮させ
「ありがとう。言われてみれば、これが初めてのデートだね。何だか、随分とヘンテコなデートになっちゃったけど」
と、小さく呟いた。そんな仕草ですら、晴馬にとっては堪らなく可愛らしかった。彼女の言う通り当初の予定は狂ってしまったが、そのおかげで、学校では見せない渚の表情を沢山見ることが出来たのは、良かったのかもしれない。
「じゃあ、改めてありがとうね。私は駅まで戻るけど、杉内君は真っすぐ家に帰る?」
渚は足元の鞄を肩にかけ直し、踵を返そうとする。だが
「ううん。駅まで見送るよ。ただその前に、俺はこのままお参りをしてくる」
それを聞いた渚は、再びぴたりと動きを止める。
「境内に入っても大丈夫...なの?」
当然の反応だ。怪現象を経験してお参りをふいにした元凶である本人が懲りずに社まで近づこうとしているのだから。
しかしその事実を分かっていても、晴馬は拝殿の前に足を運びたかった。
「うん。もしさっきの鈴の音が、本当に神様が怒った証なのなら今のうちにしっかりと謝っておきたい。それに...」
「それに?」
「ううん、何でもない」
渚と本当に付き合えたことに対するお礼を伝えたい。それを渚に伝えようとしたものの、急に何か喉の奥に突っかかるようなものを感じた晴馬は結局言葉を濁した。その正体が羞恥なのか、はたまた別のものなのかは晴馬自身にも分からなかった。
「そっか。何か、杉内君らしいね。目に見えないものにも、しっかりと謝ろうとするの」
その言葉に晴馬はどきりとする。変に思われてしまったか。
「う、うん。やっぱ変だよね、俺」
「ううん!全然変じゃないよ!」
だが渚は首を横に強く振り、晴馬の言葉を強く否定した。
「何かに対してしっかり頭を下げられる人って、私カッコいいと思う。この間うちのクラスの男子がさ、授業中にふざけて消しゴムを投げ合っていたことをホームルームで叱られた時、半分くらいの男子が『自分はやってません』って白を切ったんだ。私その時、そうやって逃げた奴ら全員卑怯で、カッコ悪いと思った。だから余計、杉内君は素敵に感じるよ!」
ドクン
鼓動が強く高鳴ったのを、晴馬は感じた。この感触には覚えがある。
そうだ。この高鳴りは、丁度この神社で、恋愛成就のお願いを終えた後に感じたものと全く同じだ。
「私ここで待ってるから、杉内君は行ってきて!私の分も謝ってくれると嬉しいな!それが終わったら駅まで一緒に帰ろ!」
「うん。ちょっと、行って来るね」
込み上げてくる熱いものを抑えるのに夢中で、晴馬は少し素っ気ない感じで境内へと向かう。鳥居の前で一礼。その後に晴馬は慎重に鳥居をくぐった。
何も聞こえない
またあの鈴の音が聞こえたらと身構えていたが。あれは本当に幻聴だったのだろうか...
やはり腑に落ちないまま、晴馬はいつも通り手水舎の前に立つ。しかしひんやりとした空気を放つ東屋の下で、晴馬はとある違和感を覚えた。
秋山神社の手水舎には水を溜める石盆に水を供給する、口から水を吐く石造の蛇がある。手水舎に置かれる生き物と言えば竜が連想されると思うがこの神社は少し特別で、秋水河姫神の化身が蛇とされていることで、石の蛇が誂えられている。
そして蛇の口からは初詣や毎年行われる祭りや行事が催されている際以外でもちょろちょろと水が常に流れているのだが、この時だけは何故かその水が完全に止まっていた。
(水が止まっているなんて、珍しいな...)
そう思いながら、晴馬は石盆に溜まった水を柄杓に掬うと両手を洗い、最後に口を清める為に残った水を口に含む―
(な、何だこれ...!!?)
だがそれを含んだ瞬間、口内に瞬く間に広がったその凄まじい不快感に晴馬は思わずを口を覆った!
水は、掬った時に気が付かなかったのが不思議な程に恐ろしく生臭かったのだ。加えて、真水とは思えない程に、異様な滑りと粘性を持っていた。まるで多量の水飴をそのまま飲み込んだかのようだ。
(は、吐き出さないと...!)
晴馬は口を大きく開きそれを外に出そうとする。しかし更に奇妙な事に、水はまるでそれ自身が意志を持っているかのように口外に出るのを拒み、挙句晴馬の喉を通ろうと奥へ奥へと迫って来たのだ!生臭さが鼻を強く通り抜け、晴馬は息が止まりそうになる。
バシシューッ!!!
その時、止まっていた蛇の口から大量の水が晴馬目掛けて噴き出して来た。もがいていたせいで体幹が崩れていた晴馬はその水圧に押し負け、派手に尻もちをつく。だが地面に尾てい骨をしかと打ち付けた時、まるでむせたせいで鼻の奥に詰まっていた異物が抜けたかのように、晴馬を襲っていた不快感がすぅっと消えた。
「ゴホッ...ゴホッ...」
晴馬は四つん這いになって絶え間なく咳き込む。その様と全身をびしょびしょにした姿を見て、驚いた周囲の人間が晴馬に歩み寄って来る。
「杉内君!?一体どうしたの!?」
人が集まっているのを見て、何かが起きたと察したのだろう。先程境内に入る事さえ拒んでいた渚が、晴馬の姿を見て、血相を変えて走り寄って来た。
「びしょびしょじゃない!」
「ご、ごめん...。きゅ、急に水が噴き出して来て...」
「これ使って!」
渚は急いで自身の鞄をあさり、普段部活中に使っているスポーツタオルを晴馬に渡した。
「ありがとう...」
晴馬は柔軟剤の香りを強く纏うそれで全身を拭きながら、背後の手水舎に振り返る。たった今水を勢いよく噴き出したのが嘘のように、石の蛇はちょろちょろと細い水を吐いていた。
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