第3話 かくして夜警団は結成された

莉子の「お花みたい」という言葉は、さながら騒がしい水面に投げ込まれた小石のように、沙耶の心にほんの小さな波紋を広げた。けれど、その波紋はすぐに、集会所の熱気に満ちた喧騒にかき消されてしまった。


「……というわけで、皆さん! 我々は、この卑劣な犯罪予告に対し、断固たる態度で臨まなければなりません!」


自治会長の田中一郎が、パン、とテーブルを叩いて立ち上がった。


彼の生真面目な顔は、使命感という名の紅潮に染まっている。手にしたレジュメが、興奮でかすかに震えていた。


「つきましては、本日、この場をもちまして、『メゾン・グリーンサイド防犯対策本部』の設置を宣言します! そして、有志による『夜警団』を結成し、我々の手で我々の平和を守るのです!」


夜警団。その古風な響きに、集会所は一瞬、水を打ったように静かになった。


住民たちは顔を見合わせる。まさか、そんな大げさなことになるとは。しかし、ポストに描かれた不気味なマークの残像が、彼らの常識的な判断力を鈍らせていた。不安というものは、時に人を大胆にさせる。


「賛成ですわ!」


沈黙を破ったのは、やはり鈴木さんだった。


「うちの主人にも参加させます! ね、あなた!」と隣に座る小柄な夫の背中をバシンと叩く。


「いや、しかしだな……」

「しかしもなにもありません! こういう時こそ、住民が一致団結しなくてどうするんですか!」


鈴木さんの檄を皮切りに、「まあ、やるだけやってみるか」「何もしないよりはマシだろう」という空気が、じわじと伝染していった。


こうして、半ば流されるような形で、メゾン・グリーンサイド夜警団は、その日のうちに結成される運びとなった。田中さんを団長に、鈴木さんのご主人などが団員として名を連ねた。沙耶は、さすがにシングルマザーであることを理由に固辞したが、情報提供などの協力を約束させられた。


議論が白熱する中、それまで部屋の隅で腕を組み、彫像のように黙り込んでいた老人が、すっくと立ち上がった。確か、挨拶回りでは顔を合わせなかったが、他の住人の話からすると、長年このマンションに住んでいる高橋さんという人らしい。無口で、ほとんど誰とも交流を持たないことで有名だという。


高橋老人は、集まった人々の顔を、感情の読めない瞳でゆっくりと見回した。何か重要な発言をするのかと、誰もが固唾を呑んで彼に注目する。田中さんも「高橋さん、何かご意見でも?」と促した。


しかし、高橋老人は何も言わなかった。ただ、ひとつ小さく溜息をつくと、そのままくるりと背を向け、ぎし、ぎし、と床を鳴らしながら集会所から出て行ってしまった。


残された人々は、あっけにとられていた。


「……何ですの、今の。感じが悪い」


鈴木さんが、吐き捨てるように言った。


その一言が、住民たちの胸に燻っていた疑念の火に、そっと油を注いだ。


そういえば、高橋さんの部屋のポストには、マークが書かれていた。彼のあの態度は、何かやましいことがある証拠ではないのか。そんな無言の憶測が、人々の間を駆け巡った。

集会がお開きになったのは、夜も九時を回る頃だった。すっかり疲弊した沙耶は、眠そうな目をこする莉子の手を引いて、部屋へと向かう。エレベーターを待っていると、ちょうど管理室から出てきた山田さんと鉢合わせた。


「お疲れ様でした、水野さん」


山田さんは、どこか引きつった笑顔を沙耶に向けた。


「お疲れ様です。大変なことになりましたね」

「ははは……まあ、念には念を入れるということで」


言葉とは裏腹に、その目は全く笑っていない。沙耶は、その不自然さに、やはり何か違和感を覚えた。


その時、沙耶の腕に隠れるようにしていた莉子が、くん、と鼻をひくつかせ、小さな声で呟いた。


「山さん、ペンキの匂いがする」

「え?」


沙耶は山田さんを見たが、特に変わった様子はない。莉子の言葉が聞こえたのか、山田さんの肩が、ほんの少しだけ強張ったように見えた。


「管理人さんですもの。どこか修理でもしてたのよ、きっと」


沙耶がそう言って莉子を促すと、到着したエレベーターに乗り込んだ。ドアが閉まる直前、山田さんが逃げるように管理室へ戻っていく後ろ姿が見えた。




その夜。

莉子を寝かしつけ、溜まっていた仕事を片付けた沙耶は、凝った肩をほぐそうと窓辺に立った。ふと、マンションの中庭に目をやって、思わず息を呑んだ。


花壇のあたりに、ぼんやりとした灯りが見える。目を凝らすと、誰かが懐中電灯を片手に、地面に屈みこんでいるのがわかった。

その人影が、ゆっくりと顔を上げた。月明かりに照らされたその横顔は、紛れもなく、集会を無言で退出した高橋老人だった。


高橋さんは、小さなシャベルのようなもので地面に穴を掘り、何かをそっと埋めては、土を被せている。その行為を、何度も、何度も繰り返している。


空き巣のマーキング、謎の老人、そして夜中の秘密の作業。

ミステリー小説の登場人物が、すべて揃ってしまったではないか。


沙耶は、レースのカーテンの隙間からその光景を見つめながら、これからこのマンションで平穏な日々を送れるのだろうかという、本格的な不安に襲われるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

メゾン・グリーンサイドの小さな謎 そーえい @soueigo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る