第2話 靴の物語(2)
窓に面して、疲れた感じの男が座っていた。ビロードの生地の立派な大きな椅子、重そうな、なんの木でできているのだろう大きなデスクの前に座っていた。窓の外を見つめ、何か、物想いに耽っているようだった。
中野だった。中野は振り向いた。
「おい、どうした」
振り向いたその顔には、驚きが窺われた。目は見開かれ、鋭い眼光が、私に向かって放たれた。
「私だ。藤田だ」
私は名乗った。私の格好は商人の、手代としてのそれだった。驚きは当然のはずだったが、面影は、まだわかるはずだった。
「誰だ、君を通したのは」
「無理を言って通してもらったんだ」
実際には、事情を補佐官に説明した上で、さらに主人の紹介状をみせておいたのだ。主人の紹介状がある程度、効果があったようだった。
「何をしに来た」
我に返った中野の返答は、ぶっきらぼうだった。机に肘をかけ、そっぽを向いた。窓にはカーテンがかかっていたが、明るい日差しが、その向こうから差し込んでいた。私は表情を緩めた。強情な中野の顔は、子供の頃の面影を残していた。
「主人から、君のことを聞いたんだ」
「なんだって、何の話を聞いたんだ」
政府の出先機関の話で、この街はもちきりだった。戦争が始まる。この時期にはみんなが敏感になる。この話については緘口令が敷かれていたようだったが、町中の商人で、この話を知らないものはいないということに、中野は気づいていないようだった。
「君が困っていると言う事を。こういう話は漏れるものだからね。3千円の公債の引き受け手がいないということではないか?軍靴の陸軍への納入に支障が出ているというふうに聞いている。本当なのか?」
中野はしばらく黙っていた。政府の高官として、どう答えようか、迷っているようだった。しかし、意を決したようだった。
「あぁ本当だ」
ぶっきらぼうに吐き出したあと、また、中野はしばらく黙りこんだ。
「これを」
私は小切手の束を机の上に置いた。単なる紙切れだった、しかし、そこには、私の汗が染み込んでいた。
「それは、なんだ?」
中野は驚いたようだった。
「主人に頼み込んで、これだけのものを用意してもらった」
半分は本当だった。
「君がか?」
「そうだ。私は今、手代として主人に信用を得ている。君のことだ、きっと先々に命に換えても支払いはしてくれるだろう。お願いをして、それだけのお金をかき集めてもらったんだ」
主人に相談すると、半分の資金は出してくれた。しかしそれでは足りなかった。残りは、この街の付き合いのある商人たちに、頭を地面に擦り付け、靴に齧り付いて借りてきたものだった。
それだけの、必要があったのだ。
「使ってくれ」
私の顔を見つめ、中野はしばらく動けないようだった。
「いいのか」
「あぁ、君には世話になっている」
「私に?」
「とぼけなくてもいい、私の父が来て事情は教えてもらった」
中野は何も言わなかった。黙然と、静かにあらぬ方を見つめていた。
「そうか」
それ以上の返答は何もないようだった。私も黙り込んだ。二人で過ごした、昔のことが、思い起こされた。
ノックをする音がした。
「財務官様!!、財務官様!!」
主人の紹介状の効果が、切れる刻限のようだった。
「用があるようだな、私にはここは敷居が高すぎる、もうここで失礼する」
私は踵を返した。
「まて」
私はその声が聞こえたが、ふりむかなかった。
「これは借りておく。感謝する」
私の背中に中野の声が聞こえた。その声に、懐かしい響きを感じたのは、気のせいだったのだろうか。
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