第五話『神の種が芽吹く時』
【見つけた……わたしの坊や】
――音もなく、ただ“空気”が断裂した。
床が微かに軋み、壁がきしむ。まるでこの建物全体が、巨大な腕に抱きすくめられているかのようだった。
音の代わりに、耳の奥で鈴の音が細く鳴った。黒い怪物の腕についた二つの鈴。澄んでいるのに、どこか鼓膜を震わせるような不協和音だった。
その声は、柔らかかった。
優しく、低く、母音を多く含んだ、どこまでも穏やかな声だった。
でも、それは“この世のものではない”という確信があった。
現れたのは、“黒”。
漆黒のドレスを纏った異形の女。
顔はベールで隠され、長い黒い髪が足元まで流れている。
背は高く、腕が四本。すべての指が優雅な動きで空を撫でていた。
その姿は、まるで「大聖堂」だった。
崇高で、畏れに満ちて、決して人間には触れてはならないような。
だが彼女は、ただ静かに、一哉の前に何処からともなく、当たり前のように歩いて、そこに居た。
【おおきくなったわね。 こんなに遠くまで、ひとりで来られるようになったのね】
一哉は、声が出なかった。
懐かしい気がした。
でも、知らないとも思った。
それでも――胸の奥が、じわりと、温かくなっていく。
彼女は、そっと手を伸ばした。
白く細い、しかしどこか異様な手。
その一本一本が、自分を包みこむように触れてくる。
【わたしの可愛い人。
もう、心配はいらないの。
これからは、わたしが、あなたのすべてを護るわ――命も、魂も、心までも】
後ろで暴れている二つの怪物に目もくれず、その女はただ一哉だけを見つめていた。レースの向こう側から、それが一哉には伝わった。
傍にいる、人形を抱いた少女にすら目もくれない。ただただ、一哉だけを、無言のまま、一哉だけを見つめている。
少女が一哉の手をぎゅっと握った。
「……あのね、お兄ちゃん。
この人……こわい」
けれど一哉は、目の前の“母”を見ていた。
そして、彼女がおそらく微笑んで、言った。
【でも、試練が必要ね。
あなたが、ほんとうに、わたしの大切な子かどうか――】
◆ ◆ ◆
気づけば、世界は色を失っていた。
音もない。風もない。影もない。
ただ、白く満たされた空間の中に、自分だけがぽつんと立っている。
――夢だと、すぐに分かった。
けれど、それは“嘘の夢”ではない。
心の奥を剥き出しにされるような、生々しい感覚だけが残っていた。
「……ここは、どこだ」
一哉が声に出すと、空気が波打つ。
その波の中から、誰かが現れた。
それは、幼い頃の自分だった。
子供部屋の床に小さく丸まり、薄汚れた様々なおもちゃをしがみつくように抱きしめる少年。興味もないテレビのバラエティの笑い声に、すすり泣きを紛れ込ませるようにしていた。
カーテンは閉まりっぱなし。夕暮れの光も入らない部屋。
扉は開かない。玄関の靴は沢山あるが、子供用は一組しかない。
【あの頃、ずっとここで、待ってたのよね】
あの声が聞こえた。
優しく、低く、柔らかく。それでいて、心の奥を焼くような声。
自分が、ずっと求めていた声。
黒いドレスが舞うように広がり、その中心に大きな黒い女が立っていた。
長い黒髪、顔を隠す黒いヴェール、そして四本の手。
まるで花が咲いたように、ゆっくりと彼に歩み寄る。
【待っても、待っても、誰も帰ってこなかった。
泣いても、怒っても、叩かれても、置いていかれても――
あなたは、“いい子”でいたわね】
【わたし、見てたのよ。
ずっと、あなたを見てたの。
わたしが、あなたの“お母さん”になってあげたかったのよ】
彼女は笑っていた。
そして、幼い一哉の隣に座り、そっと抱きしめる。
【ずっと泣いている。昔も、今も。
あなたは誰も愛せない。誰にも愛されない。誰にも必要とされない。誰も必要としていない。
一人が恐いのに、さみしがり屋なのに、孤独を好む難しい人。
だから、わたしが代わりになってあげる。
“この世のすべて”を奪ってでも、あなたを愛してあげる】
【私は、貴方の母――
私は、貴方の彼女――
私は、貴方の恋人――
私は、貴方の妻――
私は、貴方の大切な人――
私は、貴方を守る人――
私は、貴方を愛する人――】
【世界で、たった一人の貴方を、わたしだけのものに――
世界で、たった一人のわたしが、あなただけのものに――】
「……それは、ちがう」
一哉は呟いた。
「それは、僕がほしかった“愛”じゃない。
そんなの、閉じ込められるのと同じだ」
【でもあなた、ほしかったのでしょう?
一番に、優先してもらえること。
世界で、ただ一人を、無条件に必要とされること。無条件に応えてくれる一人を】
たしかに、そうだった。
学校でも、家でも、いつも誰かの“外側”だった。
友だちの輪に入れなくても、「別にいいや」と笑っていた。
家に帰らなくても、「気にしてない」と言っていた。
でも、それは嘘だった。
【あなたの心の奥にある願い。
それが、わたし。
わたしは、あなたの欲望。あなたの半身。
そしてあなたを護るモノ――】
空間が揺れた。
黒い花弁が舞い、夢の空が割れていく。
けれど彼女の声だけは、澄んでいた。
【さあ、選んで。手に取って。抱きしめられて。愛されて。必要とされて。私の傍にいて。“誰かに愛されたかった”あなたの願い。その願いごと、わたしを受け入れて
――わたしの名を呼んで】
「……本当は、怖いんだ」
一哉は言った。
「誰かに期待することが。
その分、裏切られることが当たり前みたいで……」
涙が落ちる。泣けなかったぶん。
ずっと、泣いていた。涙が枯れることなく、永遠と流れ続けた涙。
「誰かに期待されることが。
裏切った時、失望させて、嫌われるのが恐くて……」
それでも、彼は顔を上げる。
「それでも――それでも、僕は、誰かにいてほしいん」
「俺は、もう一人じゃないって思いたいんだ」
【なら、呼んで――
わたしの名を――
あなたの呪いを、あなたの欲望を、わたしに抱かせて】
一哉は、真っ直ぐ彼女を見上げる。
「――
僕の“おかあさん”。“大いなる母”。
僕は……俺は、お前を受け入れる。
だから、守って。
だから、全てを消して。
一人にしないで。
僕の都合のいい存在でいて
ずっと、傍にいて。それだけでいい」
鈴の音が鳴った。
◇ ◇ ◇
夢が崩れ、光のない街が再び広がる。
現実に戻った一哉の前に、禍乃がいた。
その姿はより神々しく、より美しく、より“愛おしく”感じられた。
一哉は、微笑む。
【さあ、坊や。
今度は、わたしがすべてを護ってあげる。
誰にも触れさせないわ。
あなたはもう、わたしの子。
大切な人なんだから】
「坊やじゃなくて……俺の名前を呼んでくれ」
【あぁ……かずや。わたしの、たった一人の愛しい人♡】
禍乃の白く長い四本の腕が、暴れていた巨大な怪物と黒い粘液の怪物。その醜悪な顔を掴んだ。
その指が音もなく閉じ、
ぐしゃり――と、世界に音が戻ったように嫌な破裂音が響く。
怪物たちは悲鳴を上げる間もなく、その形を崩していった。
禍乃の二対の両手に、先ほどまで暴れていた怪物の顔がそれぞれ握り潰されていた。
一哉は嗤う。
目の前の怪物との契約と、手にした力に。
少女は笑みを浮かべて、青年を見上げる。
ほんのりと赤らめた頬。抱きしめられて潰れるユニコーンの人形の瞳は青年を見つめる。
これは、
彼らは人にあらず、
彼らは神の現身。
彼らは怪物にあらず、
彼らは神の子。
彼らは種にあらず、
彼らはやがて神となる芽。
真名街にいる“神の種”たちは、皆「神の現身たる人の権化」。
“神の座”は一つしかない。
最後に残った一人が、“新しい世界”を創る存在になる。
おしまい。
真名街-シンメイガイー 小鳥遊ちよび @Sakiri
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