3. 日常

 兄が消えたのは、火曜日だった。




 それは突然のことだった。


 朝、いつも通り制服に袖を通し、トーストをかじりながら、テレビを見ていた。


 「行ってきます」と言って、玄関を出た。




 それっきり、帰ってこなかった。




 学校には行っていなかった。

 事故にも遭っていない。


 防犯カメラには、駅に入る姿が映っていたが、その先は何も残っていなかった。


 警察は、「家出の可能性もある」と言った。


 だが、兄が、私に何も言わず、家を出るなんて、ありえない。


 兄の部屋の机の上には、参考書と、私と一緒に行ったカフェのチラシが置いてあった。


 それを見た両親は、何も言えなかった。


 私は、泣かなかった。


 泣けなかった。




 兄は、普通の人だった。


 優しいけど鈍感で、

 真面目すぎて少し不器用で。


 先週だって、「結婚記念日のプレゼント、何が良いかな」なんて、まるで子供のように私に聞いてきた。


 プレゼントを一緒に買いに行く予定だった。


 まだ、何も決めていなかったのに。




 日常というのは、実にあっけないものだ。




 いなくなる前と後で、周囲の風景は何一つ変わらない。


 駅も、家も、学校も、いつも通り回っている。




 兄がいないことだけが、異常だった。




 *




 兄がいなくなって、しばらく経ったある夜。


 自分の部屋の整理をしていたとき、机の引き出しの奥から、文庫本が出てきた。


 異世界ファンタジーもののライトノベル。


 兄が高校生になって、初めての私の誕生日に、面白いからと勧めてきた作品だった。


 漫画くらいしか読まない中学生だった私は、あまり喜ばなかったのを覚えている。


 だから、ちゃんと読んでもいなかった。


 何度か感想を求められていたのに。




 ページを開く。


 内容は、王道と言えるもので、勇者が世界を救うお話。




 私は、物語を読み進めた。






 視界が滲む。


 そんな場面じゃないのに。






 兄がいなくなって、私は、初めて泣いた。






「面白かったよ」


 物語を読み終え、感想を述べる。






 兄は、私達の前から、消えた。






 私達の手の届かないところで、何かを見て、何かを知って。

 そして多分、何かを救っているのだろう。






 それが何かは、私にはわからない。






 けれど。


 兄は、優しい人だから。




 兄自身も、救われてほしいと、願う。






 私は、文庫本を元通り、引き出しの奥に仕舞った。







 明日からまた、日常が始まる。








 兄のいない、


 それでも続く、日常が。

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