第五章 双翼
──NASA・研究室(早朝)
懐かしい夢の余韻を引きずりながら、蒼空はゆっくりと目を開けた。
まだ日も昇らない窓の外。淡い青が、東の空ににじんでいる。
「……あと少しだ」
ぽつりと呟き、机の上に置かれていたオルブに手を伸ばす。
手のひらで転がすように眺めていると、ふと、微かな違和感が胸をよぎった。
「……ん?」
その感覚は、言葉にならない“引っかかり”だった。
昨日まで確かに見えていた構想図の中に、何かが足りない気がする。
「アリスシステムのアップデート……だけじゃ足りないのか?」
囁くように呟いたあと、視線が再びオルブへと戻る。
「……もしかして、オルブが……付いてこれてない?」
──静寂。
まだ誰も出勤していない研究室の空間に、時間だけがゆっくりと流れていく。
──そして。
「……そういうことか……!」
蒼空の瞳に、火が灯った。
──NASA・本部ロビー(朝)
陽が昇り、ガラス張りのロビーに朝の光が差し込む。
職員たちが次々と出勤し、空気がざわめき始めていた。
「先輩、おはようっす!」
元気よく声をかけたアミラに、ジュリアンは軽く手をあげて返す。
「おはよう、アミラ。昨日はどうだった? 憧れの沙羅さんとの食事は」
「最高の時間でしたよ♪ あとで先輩にも聞かせてあげますね、アリスシステム誕生秘話!」
「……もう知ってるよ。誰よりも、な」
「へっ?」
「俺もチームのひとりだったからな。苦労も、成功の喜びも……全部な」
「先輩……」
アミラの中で、先輩の評価が静かに、しかし確実に上昇していく。
「……あとで、詳しく聞かせてほしいっす!」
──NASA・研究室(朝)
カチャ。
扉の開く音とともに、沙羅が姿を現す。
「……あっ、蒼空。もう来て──」
言いかけて、言葉を止めた。
蒼空は、机に突っ伏したまま、静かに眠っていた。
「……来てたっていうか、ずっといたのね」
床に落ちていた白衣を拾い、そっと彼の背にかける。
「身体、壊すわよ……ほんとに」
ふと、机の上の紙に目をやる。
描きかけの図面が、一枚。
沙羅はそれを手に取り、目を細めた。
「オルブを……そう来たか」
その声は、静かな驚きと、どこか誇らしさを含んでいた。
カタカタカタ──
朝の研究室に、キーボードの音が規則正しく響いている。
その音に引き寄せられるように、蒼空がゆっくりと目を覚ました。
「……おはよう」
「おはよう。ちゃんとベッドで寝なきゃ、身体壊すわよ」
チラっと振り返った沙羅が、モニター越しに微笑む。
「……うん。でも、それより沙羅」
蒼空が言葉を継ごうとした瞬間、沙羅はすでに立ち上がっていた。
「オルブの改造でしょ? アリスのアップデートが終わったら、すぐに取りかかるつもり」
「……話が早いね」
「何年一緒にやってると思ってるの?」
二人の間に、言葉以上の理解が流れていた。
まさに──阿吽の呼吸だった。
コンコン。
研究室のドアをノックする音が響き、続いて扉が開く。
「蒼空、リズ長官が呼んでるぞ──あ、沙羅もいたか。ちょうどいい。ついていってやってくれ。こいつ一人じゃ、話が通じんからな」
肩をすくめながら入ってきたのは、同僚の技術主任だった。
「OK、蒼空、行こうか。何の話だろうね?」
沙羅がコートを引っかけながら言う。
蒼空はオルブをそっとポケットに収めると、静かに答えた。
「僕が呼ばれるってことは──アリスのことだ」
──NASA本部・長官執務室
コンコン──
「……失礼します」
蒼空と沙羅が、重い扉を開けて中に入る。
「来たわね。あら、沙羅もいたの? ちょうどいいわ。座ってちょうだい」
リズ長官は、落ち着いた口調で手を差し出す。
部屋の奥では、グレン室長がすでに椅子に腰掛けていた。
二人が席についた瞬間──
空気が、変わる。
「単刀直入に聞くわ」
リズ長官の表情が引き締まり、まっすぐに蒼空たちを見つめる。
その視線には、重圧すら感じられた。
「アリスの観測結果を受けて……この後、宇宙はどうなると予測しているの?」
無言の緊張が室内を満たす。
「……どうにもなりません」
蒼空が、淡々と答えた。
「ただ、観測をした。それだけです」
「では、なぜ“宇宙の膨張が止まった”という観測結果が出た?」
グレン室長が、鋭い眼差しで問いかける。
蒼空は一瞬、口を開きかけて──そして黙った。言葉が、追いつかない。
「……私が説明します」
沙羅が割って入る。
このために、彼女は蒼空の隣に来たのだ。
「宇宙は、そもそも“膨張”なんかしていなかったんです」
室内に、明確な動揺が走る。
リズ長官とグレン室長が、わずかに目を見開いた。
「従来の観測装置では、宇宙の全域を正確に捉えることができなかった。
だから、あたかも“膨張している”ように見えていた──それだけの話です」
沙羅はタブレットを開き、二人の前に差し出した。
「これが、アリスシステム起動後の観測データです」
グラフと映像が浮かび上がる。
「見ての通り、観測上の“膨張率”はわずかに減速しています」
リズ長官とグレン室長は、食い入るように端末を覗き込んだ。
「これは、膨張が減速したわけではありません。
アリスが“全体像を捉え始めた”ことで、相対的な視野の誤差が修正された結果です。
つまり──これは、観測が追いついた証拠なんです」
その言葉に、リズ長官とグレン室長は息を呑んだ。
「……で、その先は? この先の宇宙は、どうなっていくの?」
リズ長官が最初の問いを、改めて繰り返す。
その声からは、隠しきれない動揺がにじんでいた。
沙羅は、少し間を置いて答える。
「現時点では、アリスシステムですら──“ようやく追いついた”レベルです。
全貌の解明には、まだ“視えない”領域がある」
「だから今、アリスとオルブの両方を、アップデートしているところです」
蒼空が補足するように口を開いた。
「もう少しです。完成すれば──本当の“宇宙全域”が、明らかになります」
長官と室長は、静かに互いを見て頷き合った。
そして、リズ長官が正面の蒼空を見据える。
「……本当に、宇宙の解明ができるの?」
その問いに、蒼空は長い沈黙のあと──静かに、首を縦に振った。
「……わかったわ」
リズ長官は息をつき、椅子の背にもたれかかる。
「公式発表は──“現在調査を進めており、全貌が判明し次第、改めて発表する”……ということにしておくわ。いいわね? グレン」
「承知した。関係各所に連絡する」
グレン室長は立ち上がり、携帯電話を片手に執務室をあとにする。
残されたリズ長官は、しばらく沈黙した後──
小さく笑った。
「……あなたたちに、かかっているわね。正直、私が生きているうちに“宇宙の真実”が明かされるなんて……年甲斐もなく、興奮してるわ」
NASAの長官であっても。
世界最前線の指揮者であっても。
その胸の奥には、きっと──ロマンを求める、ひとりの観測者がいた。
──NASA研究室(昼)
リズ長官、グレン室長とのやり取りを終え、研究室に戻ってきた蒼空と沙羅。
「……ここまで来たら、もうやるしかないって感じだね」
自分に言い聞かせるように、沙羅は声を上げた。
「うん、そうだね」
静かに頷く蒼空。その目にも、沙羅と同じ火が灯っていた。
「さーて……やってやりますか!」
沙羅は袖をまくり、モニターの前へ。
キーボードを叩き始めるその背中を見て、蒼空も小さく笑い、自らの席へ向かう。
彼らが見ている先は、いつだって同じだった。
──技術棟(別棟)
「おいおい、泣くなよアミラ」
ジュリアンが苦笑しながら言う。
アリスプロジェクトの話を聞いたアミラは、目を真っ赤にしていた。
「だって……蒼空さんと沙羅さんの絆が……ハンパないっすよ……!」
「たしかにな。あの2人がいなきゃ、今のアリスシステムはなかった」
ジュリアンも言葉を詰まらせ、そっと目頭をぬぐう。
アミラは深く息をついて、涙を拭いながら顔を上げる。
「よしっ。早く一人前になって、沙羅さんと一緒に仕事します!」
「その意気だ!……ってことで、俺からの試練な」
ドサッ──
未処理の書類や作業依頼の束が、アミラのデスクに積み上がる。
「ちょ、先輩!? それ、ただの仕事の押しつけじゃないっすかー!」
技術者の卵が、また一人──確かに“孵った”瞬間だった。
──数日後・NASA研究室(夕方)
カタカタカタ……。
夕焼けが研究室を淡く染める中、沙羅は朝からずっとモニターと向き合っていた。
そして、ついに──
「よしっ……できた!」
沙羅の声に、蒼空がハッと立ち上がる。
「アップデート、終わったの?」
「うん。アリスとオルブの最終調整が完了した。あとは、ここのエンターキーを押すだけ」
静かな熱を帯びた視線で、沙羅は蒼空に問う。
「……準備、できてる?」
蒼空はわずかに息を吸い、ゆっくりと頷いた。
「……うん。お願い」
ターン──。
静かな研究室に、エンターキーの音が響く。
直後、アリスシステムとオルブが共鳴するように微かに振動した。
オルブがふわりと宙に浮き、柔らかな光を放ち始める。
蒼空はゆっくりとレンズを装着し、その光の中に身を投じる準備を整える。
「じゃあ……行ってくる」
彼の瞳は、まだ誰も見たことのない宇宙の“終端”を見据えていた。
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