第3話 観測者の挑戦状と地下書庫の悪夢
事象記録識別:HKI-ECM-202X-TKY03-Report01
インシデント発生日時:西暦202X年X月X日 13:00(JST)より継続中
インシデント発生座標:東京都██区、██大学キャンパス及び隣接区域
報告担当部門:ハシュマル機関極東支部・作戦司令部
初期存在脅威度評価:カテゴリー5(緊急事態/広域精神汚染の兆候)
追記(西暦202X年X月X日 13:17):存在脅威度をカテゴリー5(確定)に上方修正。敵性知性体『観測者』による意図的攻撃事象と断定。詳細は補遺001を参照されたし。
1.概要
東京都██区に所在する██大学キャンパス及びその周辺区域において、広域精神汚染現象(以下「本事象」)を確認。本事象は、学生及び教職員の集団的な意識混濁、恐慌症状、及び重篤な精神的苦痛を惹起しており、影響範囲は拡大傾向を示す。本事象の主導者は、敵性知性体『観測者』と強く推定され、担当執行官たる
2.事象発生経緯及び初期対応
西暦202X年X月X日
13:05:██大学構内において、複数の学生が原因不明の身体的変調を訴え始める。初期症状は頭痛、眩暈、軽度の錯乱状態。
13:15:同時多発的に意識を喪失する学生が急増。学内は統制不能な恐慌状態に陥る。ハシュマル機関極東支部に第一報入電。
13:20:現地センサー及び情報蒐集班からの報告により、M大学キャンパス全域で高レベルの未知なる精神感応波形を観測。これを広域精神汚染と判断。
13:25:対象区域を封鎖レベル4へ移行。偽装情報「大規模化学物質漏洩事故」を関係各所へ通達。警視庁公安部内の協力者(識別コード:[編集済])を介し、周辺交通規制及び一般市民の避難誘導を開始。
13:30:エージェント神代那縁に対し、現地での状況把握及び初期対応を指令。特殊感応通信による連絡体制を確立。
3.観測記録(抜粋)
精神汚染の特性(初期分析):
・影響範囲:██大学キャンパスを中心とする半径約500メートル。汚染源は特定に至らず、拡散パターンも不規則。
・症状:初期は軽度の精神的混乱。しかし、曝露時間の遷延に伴い、幻覚、幻聴、記憶障害、攻撃性の増大など、より深刻な症状へ移行する。最終的には不可逆的な精神崩壊へ至る蓋然性が高い。
・伝播様式:空気を媒介とするものではなく、未知の精神感応波による意識への直接干渉と推定。特定の精神的特性を有する個人が影響を受けやすい傾向(要追加分析)。
・エネルギー放射:微弱ながら、既知の物理法則では説明不能な特殊タキオン粒子反応を断続的に検出。これは『観測者』の活動との関連性が濃厚である。
『観測者』の動向:
・西暦202X年X月X日 13:35:ハシュマル機関全部門に対し『観測者』を名乗る存在より暗号化されたメッセージが着信。
「神代那縁との個人的な遊戯を開始する」との声明を確認。
・メッセージ内容(要約):「██大学文学部棟地下書庫最奥部『禁断の部屋』へ、30分以内に神代那縁が単独で到達すること。未達成の場合、キャンパス内の精神汚染レベルを臨界点まで上昇させ、生存者全員の精神的崩壊を誘発する」との警告を含む。
4.補遺
・補遺001(緊急指令):エージェント神代に対し、上記『観測者』の声明内容を伝達。現時点において機関の直接的介入は困難を極めるため、エージェント神代の単独行動を暫定的に許可する。ただし、自身の安全確保を最優先事項とし、状況が許す限り本部の指示を仰ぐべし。
・事象収束手順『キマイラ』の発動準備を指示する。
報告日時:西暦202X年X月X日 13:40(JST)
発信者:ハシュマル機関極東支部作戦司令部・部長代理 橘征四郎
宛先:執行官 神代那縁
*
無機質なコンクリートの階段を駆け下りる。僕の頭蓋内では、橘さんのどこまでも冷静な、いや、冷静を通り越して冷徹ですらある声が反響していた。いや、この表現は正確ではない。特殊感応通信機から送信された無味乾燥なテキストデータが、僕の脳内で勝手に彼の声色へと変換、再生されているに過ぎない。人間というものは、切迫した状況下においては、情報の送り手の幻影を無意識に捏造してしまうものらしい。これもまた、僕の脆弱な精神性の証左と言えようか。
内容は、絶望的という言葉すら生温い。僕という矮小な存在を主軸に据えた、極めて悪趣味な遊戯。その開始を告げるゴングが、今まさに鳴らされたのだ。
僕の周囲には、阿鼻叫喚などという陳腐な四字熟語では到底表現しきれぬ地獄が顕現している。数分前まで、退屈な日常という名の幸福を無自覚に謳歌していたはずの学友たちが、断線したマリオネットよろしく床に折り重なり、虚空に向かって意味不明な音節を放っている。
精神汚染。その無機質な単語の響き以上に、眼前の光景は僕の精神を直接的に、そして確実に削り取っていく。
図書館に駆け込み、一番広い閲覧室のドアをけ破る。
「引野さん! 相葉!」
ひび割れた喉から絞り出した声は、自分のものではない音を発した。人いきれと、正体不明の甘ったるい香りが混淆する澱んだ空気の中、僕は必死に視線を彷徨わせる。
いた。書架の落とす幾何学的な影にうずくまる引野さんと、その傍らで無防備に四肢を投げ出している相葉の姿。
「引野さん、しっかりしろ!」
彼女の肩を掴み、揺さぶる。その顔は蒼白で、浅く速い呼吸が繰り返されていた。僕の声が届いたのか、虚ろな瞳が緩慢に僕を捉えた。
「……かみしろ、くん……? みんな、たおれた……あたまが、割れそう……」
「大丈夫だ。僕がいる」
何の根拠もない言葉を吐きながら、彼女の細い腕を引いて無理やりに立たせる。その刹那、引野さんの視線が、僕の背後、すなわち相葉へと注がれた。
「相葉君が……」
「ああ、彼も助ける。助けてみせる。僕が」
引野さんを近くの壁に寄りかからせ、僕は相葉に駆け寄った。意識はない。顔色は土気色で、唇が微かに痙攣している。どうすれば――。
その時だった。ふわりと、温かい光が僕の手を包んだ。いや、これもまた不正確な認識だ。光は、僕の隣にいつの間にか移動していた引野さんの掌から発せられていた。彼女は立っているのもやっとなはずなのに、震える手で相葉の額に触れている。彼女の異能、限定的治癒能力。触れた対象の軽微な外傷や疲労を回復させる力。しかし、その代償は彼女自身の生命力だ。
「うぐっ……」
相葉の眉がぴくりと収縮し、ゆっくりと瞼が開かれた。まだ焦点の定まらぬ瞳が、僕と引野さんを交互に映す。
「……あれ……かみしろ……? ひきの、さん……? 俺、なんか……すごく変な夢を見ていた……」
「大丈夫か、相葉!」
「ああ……まだ頭がガンガンするけど……って、うわっ! なんだこりゃ!?」
ようやく周囲の惨状を認識した相葉は、語彙を失う。だが、引野さんは相葉を治癒したことで、立っているのもつらそうだ。今にも崩れ落ちそうな彼女の身体を、慌てて支える。彼女一人の力で、この状況がどうにかなるはずもない。
キャンパスの四方から、けたたましい救急車のサイレンが複数、途切れることなく聞こえてきていた。誰かが通報したのだろう。しかし、この数の異常発生者に、救急隊ごときで対応できるとは到底思えなかった。
その時だった。耳障りなハウリング音と共に、キャンパス全体に緊急放送が流れ始めた。ノイズ混じりのそれは、疑いようもなく異常そのものであった。
『――聞こえるかな、ハシュマル機関の秘蔵っ子、神代那縁君。そして、そこにいるささやかな癒やし手のお嬢さん。この惨状は、ほんの始まりに過ぎない。僕の「調律」の序章だ。君のその忌まわしい力で、何が守れる? 誰が救える? 君の絶望が、この世界の新たな序曲となるのだと、僕は言ったはずだ。さあ、この茶番を終わらせたければ、大学本館の屋上へ来たまえ。そこで、君の無力さと、世界の真実を、その目に焼き付けてあげよう。ああ、急いだ方がいい。時間はあまり残されていない――』
観測者。雄弁に語ったその声は、脳髄に寄生する虫のように、僕の怒りの琴線を掻き鳴らす。挑発し、精神的に追い詰めようという魂胆か。引野さんのことまで言及するとは許せん。
だが、待て。思考を回せ。橘さんからの報告では、目的地は文学部棟の地下書庫だったはずだ。しかし、この放送は大学本館の屋上を指定している。情報の齟齬。いや、これは敵による意図的な情報操作。僕の判断を鈍らせ、混乱させるための罠。機関からの正式な指令と、敵性存在からの直接的な挑戦状。天秤にかけるまでもなく、本来従うべきは前者だ。しかし、奴はこの状況そのものを俯瞰し、僕の選択を楽しんでいる。僕が地下へ向かえば、屋上で何かを起こすだろう。屋上へ向かえば、それこそが奴の狙い通りというわけだ。どちらを選んでも、奴の掌の上。
ならば、選ぶべき道は一つしかない。
「ここにいて。必ず戻る」
引野さんと相葉にそれだけ告げると、僕は放送の主が待つであろう大学本館の屋上へと続く階段を駆け上がり始めた。より挑発的で、より奴の悪意が渦巻いていそうな、その舞台のど真ん中に、敢えて飛び込んでやる。この手で、奴の歪んだ調律とやらを止めなければならない。僕の絶望が序曲だと? ふざけるな。序曲が絶望なら、終曲は僕が書く。僕という存在を賭けて、その旋律を完膚なきまでに破壊してやる。
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