第2話 観測者の黒きカプリッチョ
あれから三日。講義終了を告げるチャイムが、やけに間延びした音で僕の鼓膜を気怠く揺らした。途端、周囲の学生たちが、まるでパブロフの犬よろしく、解放感という名の餌に釣られて一斉に立ち上がり、意味のあるようなないような喧騒を生産し始める。僕はそれを、曇りガラスの向こう側で繰り広げられる、どこか遠い世界の出来事のように感じていた。
中洲での一件以来、どうにも世界の解像度が1段階下がったような、妙な違和感が抜けきらない。いや、これは僕自身の脆弱な精神が、あの忌まわしい光景をこれ以上受容することを拒絶するために、現実との間に無意識の防壁――いわば認識のノイズキャンセリング機能でも展開しているのかもしれない。我ながら、実に厄介にして無駄な自己防衛機能が作動したものだ。
思考の雑音を物理的に遮断しようと、イヤホンを耳に差し込もうとした、その時だった。ふと、首筋に粟立つような微かな悪寒。気のせいか、と何気なく周囲を見回す。他愛ない会話に興じる学生たちの笑顔が、ほんの一瞬、能面のように無機質で無感情な表情に変化したように見えた。すぐに元の喧騒に戻ったものの、あの日の精神的負荷が、未だ僕の知覚を汚染し続けているのは明白だった。まったく、僕のような人間は、平穏な日常という名の舞台装置があって初めて、かろうじて正気という役を演じ続けられる、実に安っぽい役者に過ぎないのだと思い知らされる。
「
不意にかけられた声に振り返ると、そこにいたのは、
いや、顔見知りというのは僕の思い上がりか。彼女の側からすれば、僕は「時々見かける、クラスの隅にいるよく分からない男子生徒」程度の認識に過ぎないであろう。彼女のような太陽を凝縮したごとき存在は、日陰を好む僕とは生息領域が異なる。本来ならば、決して交わるべきではないのだ。
「ああ、引野さん。……そう、だね。少々、哲学的というか、掴みどころのない話だった」
我ながら、なんと当たり障りのない、そして面白みの欠片もない返答だろうか。このコミュニケーション能力の欠如こそ、僕が社会不適合者たる所以である。これでは、彼女が僕にかける言葉の総量も、エントロピーの法則に従い、やがては無に収束していくに違いない。それはそれで、僕にとっては望ましい結果なのかもしれないが。
「顔色が悪いみたい。大丈夫?」
彼女の澄んだ双眸が、僕の顔を心配そうに覗き込む。その混じり気のない純粋な気遣いが、僕の心の奥底に沈殿する罪悪感と自己嫌悪の塊を、ちくりと刺した。痛い。
「いや、問題ない。少し寝不足なだけだ」
嘘だ。ここ数日まともに眠れた試しがない。瞼を閉じれば、水上さんの遺体と、あの忌まわしい化け物の断末魔と、己が振るった力の残滓が悪夢となって、エンドレスで再生されるのだから。
「そう……あのね、最近、大学内で変な噂、聞かない? 特定の場所に行くと急に気分が悪くなる学生がいるとか、誰もいないはずの空き教室から物音がするとか……」
内心で眉をひそめた。
そもそも、彼女が僕にこのようなオカルト紛いの話をしてくるのには、明確な理由が存在する。入学当初、学食で僕が演じた、実に愚かしい失態に起因する。つまずいてランチをぶちまけそうになった彼女を助けようと、僕はとっさに、この忌むべき力――
結果として、彼女のランチは物理法則を無視して宙に留まり、悲劇は回避された。しかしその後、引野さんから真綿で首を絞めるがごとき執拗な問い詰めを受け、僕は己の特異性を白状する羽目になった。そういう顛末だ。それ以来、僕たちは奇妙な共犯関係に似た、付かず離れずの距離を保っている。彼女は僕と真逆の特異性を持っていたのだから。
「ちょっと、聞いてる?」
「あ、ああ、すまない。……僕はあまりそういう噂話には詳しくないからな」
言葉を濁した、その時だった。引野さんの身体が、ふらり、と僅かに揺れた。
「引野さん?」
「あ、ごめんなさい……最近、ちょっと貧血気味で……」
彼女の顔色は、確かに先ほどよりも血の気が引いている。倒れさせはしない、と咄嗟に彼女の細い腕に手を添えた。その瞬間、僕は感じ取った。微弱な精神的ノイズと、彼女自身の生命エネルギーが、不安定に揺らいでいる。これは、単なる貧血などではない。何らかの外部からの精神汚染か、それとも彼女自身が秘める異能の副作用か。
「神代君の手……なんだか、少しだけ、楽になる気がする……」
彼女は不思議そうにそう呟いた。僕のサイコキネシスが、無意識のうちに彼女のエネルギーの乱れを中和したというのだろうか。はたまた、彼女の持つ癒やしの力が、僕の異能に何らかの形で共鳴したのか。どちらにせよ、長居は無用だ。
「医務室へ行った方がいい。送ろうか?」
「ううん、大丈夫。ありがと、神代君。図書館でちょっと休んでから帰る」
彼女は弱々しく微笑むと、少しおぼつかない足取りで僕に背を向けた。その小さな後ろ姿に、僕は言い知れぬ不安を覚える。彼女のような善良な人間が、僕の関わるこの穢れた世界に巻き込まれることなど、断じてあってはならないのだ。
引野さんと別れた後、僕は一人、キャンパスを目的もなく彷徨った。気のせいではない。大学のあちこちで、微弱ながらも確実に異常の兆候――世界のバグが散見された。
原因不明の体調不良を訴え、その場にうずくまる学生。突如としてフリーズを繰り返す情報処理室の端末群。チカチカと、まるでモールス信号のように不規則な明滅を繰り返す廊下の蛍光灯。これら全てが、ただの偶然であるとは、到底思えなかった。
イヤホンを装着し、けたたましいノイズミュージックで無理やり思考を上書きしようと試みる。だが、頭の奥で鳴り続ける不協和音は、僕の正気を嘲笑うかのように、その音量を増していくばかりだった。
――やはり、もう東京にまで……。これは「観測者」の仕業か?
中洲での事件の記憶が、不快な既視感と共に蘇る。事態は僕の想像を遥かに超える速度で進行している。そんな予感がした。
人気のない渡り廊下で、あれほど騒がしかった学生たちの喧騒が嘘のように途絶えた瞬間。ポケットに忍ばせた特殊通信機が、無粋な振動を繰り返した。
ディスプレイに表示された発信者は、
『那縁、緊急事態だ。お前のいる大学を含む、都内数か所で微弱だが広範囲なアノマリー汚染を確認した。まだ初期段階だが、放置すれば大規模な精神災害に発展する可能性がある』
先ほどの引野さんの体調不良や、キャンパス内で散見された異変について簡潔に報告すると、電話の向こうから苦々しげに『やはりな……』と声が漏れた。その声色には、いつもの冷徹さとは別に、微かな焦燥が滲んでいる。
そして橘さんは、僕の存在意義を根底から揺るがす、衝撃的な事実を告げた。
『今朝方、例の「観測者」を名乗る存在から、ハシュマル機関の全部門へ向けて、一種の犯行声明とも取れるメッセージが送られてきた。内容は極めて挑発的だ。「世界の調律を始める。その最初の舞台は東京。そして、主役はハシュマル機関の秘蔵っ子、サイコキネシスト
――観測者。ハシュマル機関内部で、正体不明の
僕を名指しで?
僕の絶望が序曲だと?
は?
冗談じゃねえ。これ以上の冒涜が、果たしてこの世に存在するだろうか。
『観測者の目的、規模、手段、その全てがまだ不明だ。だが、奴らが最初に仕掛けてきた「調律」の対象がお前の大学である可能性が高い。お前には、他のエージェントが到着するまで、現地での状況把握と、可能であれば汚染拡大の阻止を命じる。だが、決して無理はするな。お前は駒であると同時に、我々にとって重要な……』
そこで橘さんの言葉が、ほんの僅かに、しかし明確に途切れた。何かを言い淀むような、コンマ数秒の沈黙。
『……切り札でもあるのだからな』
通信が途絶えた後も、僕はしばらくその場から動けなかった。窓の外には、どこまでも続く東京の街並みが広がっている。数時間前まで、僕にとってそれは、愛すべき退屈な日常の風景でしかなかった。だが今はどうだ。あの無個性なビル群の全てが「観測者」という得体の知れない指揮者によって、醜悪な不協和音を奏でるための楽器にされようとしている。
ふと、引野さんの、助けを求めるような弱々しい笑顔が脳裏をよぎった。彼女や、僕の数少ない友人である
僕はこの唾棄すべき力のせいで、過去に大切なものを失った。再び誰かが、僕のせいで傷つくことなど、断じてあってはならない。
「……観測者? ふざけるなよ?」
自分でも驚くほど低く、確たる怒りを帯びた声が、静かな廊下に響いた。
耳にかけていたイヤホンを乱暴に引きちぎり、床に叩きつける。ノイズキャンセリング機能など、もはや何の役にも立たない。これから僕が向き合うべきは、外部の雑音などではない。明確な敵意と、そして僕自身が守ると決めた、この上なく脆くて美しい日常だ。
踵を返し、僕は大学の屋上へと続く階段を駆け上がり始めた。眼下に広がる東京の街を守るため。そして何より、これ以上誰も傷つけさせないために。
階段の窓ガラスに顔が映る。その口元は、歪んだ笑みを浮かべていた。しかし、瞳の奥底では、かつてないほど強い決意の炎が、紅蓮の如く燃え上がっていた。
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