世界を壊した罪で彼女を救う

藍沢 理

第1章 精神汚染と禁断の遊戯

第1話 不快害獣と少年

文書識別コード:FUKーNakasuーAlphaー001


事象発生日時:西暦202X年6月X日18:35(JST)


事象発生場所:福岡県福岡市博多区中洲X丁目Y番地 飲食店裏手通路


報告担当部署:ハシュマル機関 九州支部


先遣調査チーム・ガンマ 初期脅威評価:レベル2(要注意/限定的汚染の可能性)


追記(20:15):脅威レベルをレベル3(警戒/能動的異常存在の兆候)に引き上げ。詳細は補遺003参照。


1.概要

 福岡市博多区中洲の歓楽街において、特異な生物学的特徴を有する排泄物(以下「検体アルファ」と呼称)が複数発見された事案。検体アルファは、外見上、既知の生物種(ドブネズミ Rattus norvegicus と推定)のそれに酷似するものの、異常な体積、未知の組成、及び微弱なタキオン粒子放射が確認された。本報告は、検体アルファの発見から初期対応、及び関連する異常現象に関する観測記録である。


2.発見経緯及び初期対応

18:35:匿名情報提供(情報源コード:[編集済])に基づき、先遣調査チーム・ガンマ(水上隊員、山口隊員)が指定エリアへ展開。


18:47:中洲X丁目Y番地裏手のゴミ集積場付近にて、検体アルファを複数発見。目視による初期観察の結果、標準的なドブネズミの排泄物と比較し、体積において約200~300パーセントの差異を認める。検体表面には、微細な燐光を発する粒子が付着。


19:02:プロトコル7ーCに基づき、検体アルファの一部を封印容器に採取。携帯型多目的センサーによる簡易スキャンを実施。結果、既知のデータベースに合致しない複数の有機化合物群、及び低レベルながら明確なタキオン粒子反応を検出。


19:25:周辺区域(半径50メートル)を非公式に隔離。カバーストーリー「ガス漏れに伴う配管点検」を適用し、民間人の接近を物理的に制限。博多警察署内の協力者(識別コード:HKTーPー04)へ状況を伝達。


19:40:九州支部本部へ状況報告。専門分析チーム及び対応部隊の派遣を要請。


3.観測記録(抜粋)

検体アルファの分析(一次):

・外観:暗褐色の固体。平均長3~5センチメートル、直径1~1・5センチメートル。通常の排泄物と比較し、著しく乾燥が遅延しており、高い粘性を保持している。


・臭気:強い刺激臭を確認。硫黄化合物、及び[データ削除済]に類似する、知覚そのものを阻害する情報災害的特性を含む可能性のある成分を検知。


・内部構造:未消化の動物性タンパク質の他、微細な金属片(チタン合金の破片と推定)、及び正体不明の結晶構造体が混入。


・エネルギー放射:████。周辺の電子機器に対し、予測不能な機能障害を誘発する危険性あり。


周辺環境への影響(初期観測):

 検体アルファ発見地点より半径5メートル以内の区域において、複数の昆虫(クロゴキブリ、イエバエ等)の死骸が散見された。死骸に捕食痕や物理的外傷は認められず、神経系への直接的な攻撃による機能停止が死亡原因と推測される。近隣の飲食店従業員より、「近頃、ネズミの挙動が異常である」「姿は見えぬが、厨房の物が荒らされる頻度が増した」等の非公式な証言を得る(詳細は聴取記録FUKーNakasuーAlphaーIVー001参照)。


4.補遺

補遺001:採取した検体アルファの1つが、封印容器内で自発的に発光を開始(20:03)。発光色は赤紫色。タキオン粒子放射量が指数関数的に急増。


補遺002:現場周辺の監視カメラ映像(提供:[データ削除済])を解析中。検体アルファが発見される約3時間前、当該エリアを徘徊する異常に巨大なネズミ様の生物影を複数確認。影の全長は約50~70センチメートルと推定される。


補遺003(緊急報告):20:13、隔離区域境界付近にて、先遣調査チーム・ガンマ所属、水上隊員が突如出現した「巨大ネズミ様存在(仮称:アノマリー・ラット)」の襲撃を受け負傷。詳細はインシデントレポートFUKーNakasuーAlphaーIRー001を参照。当該存在は極めて攻撃的であり、物理的耐久性も異常に高い。応援要請、至急。



 中洲。欲望という名の燃料を際限なく飲み込み、けばけばしい光と音と匂いを吐き出し続ける、実に業の深い街だ。深夜にもかかわらず営業している花屋が、夜気に飽和した芳香を放散させている。その香りは、一瞬、僕の思考を麻痺させるに足る強度を持っていた。

 もっとも、その甘美な記憶などというものは、路地裏から吹き付ける豚骨スープの湯気によって、ものの数秒で過去の遺物へと成り下がる。鼻腔を直接的に支配する、濃厚なスープの香り。食欲という、より本源的な欲求が、感傷に浸る僕を嘲笑う。


 この唐突で鮮烈な香りの変転こそが、中洲という街の本質を――清濁併せ呑むという言葉では生温い、混沌そのものを体現していると言えようか。

 けだし、僕のような半端者にはお似合いの場所である。


 遠くでサイレンの音が鳴り響いている。夜の空気を切り裂くその音は、この街の日常的な非常事態を告げる背景音楽に過ぎない。雨上がりのアスファルトが、品性の欠片もないネオンサインの光を乱反射させ、異界への入り口かと見まごう。


 先遣調査チームの隊員が斃れたという裏路地は、異様な緊張感と、鼻腔の奥を刺激する微かな獣臭に満ち満ちていた。僕は静かに、されど確実にその領域へと足を踏み入れた。


 果たして、そこにそいつはいた。


 全長1メートルはあろうかという、醜悪に肥大化したドブネズミ。いや、ドブネズミと呼ぶことすら、かの生物に対する冒涜であろう。赤く爛々と光る双眸、剥き出しになった長大な牙、そして金属質にも見える硬化した体毛。ドブネズミの遺伝子情報を基底としながらも、異常な成長促進因子と、恐らくはタキオン粒子による強制的な肉体変容が加わったキメラか。


 実に下らない。進化の袋小路とはこのことだ。周囲には、観測不能だが肌を粟立たせるプレッシャーが渦巻いている。報告にあった「アノマリー・ラット」に相違ない。


 耳元のイヤホンから、たちばなさんの冷静にして緊迫した声が鼓膜を震わせる。僕のたったひとりの上司だ。


『――神代かみしろ那縁なより、状況は把握している。生存者の救助と、対象の無力化が最優先事項だ。だが、ゆめゆめ力を解放しすぎるな。中洲は『表』の世界だということを忘れるなよ』

水上みなかみさん……」


 地に伏す人影に、僕は無意識に言葉を漏らしていた。倒れたエージェント――水上さんは、既に息絶えている。ひと目でそうだと断定できるのは、頭部が半分ほど噛み砕かれ、髪の毛の付いた骨と脳が周囲に散乱しているからだ。


 改めてアノマリー・ラットと対峙する。忌まわしい過去の記憶が、脳裏で瞬き始めた。それを押し殺すように、深く、深く息を吸い込んだ。


『水上がどうした? 応答しろ、那縁』

「……いえ。手短に済ませます」


 僕がそう応じるのと、アノマリー・ラットが甲高い咆哮と共に襲いかかってきたのは、ほぼ同時だった。巨体に似合わぬ俊敏さで、コンクリートの壁を蹴り、右斜め上から僕の頭蓋を砕かんと飛びかかってくる。まったく、芸のない軌道だ。


 右手をその醜悪な塊へと無造作に向ける。瞬間、僕の意思に応答し、周囲に散乱していた看板、ゴミ箱、そして打ち捨てられた放置自転車などが、物理法則を嘲笑うかのように激しく震え、ふわりと宙に浮き上がった。僕の忌むべき、そして唯一の存在価値である力――念動力サイコキネシス


「――フッ!」


 短い呼気と共に、それら浮遊物をアノマリー・ラットめがけて射出する。質量と速度を得たガラクタの奔流。金属が歪む不協和音、砕け散るネオン管の破片が、この薄汚い路地裏に光の雨を降らせた。


 アノマリー・ラットは、その巨体からは想像もつかぬ驚異的な反射神経で一部を回避したものの、数発がその硬質な毛皮を浅く引き裂いた。しかし、怯む様子は微塵もない。然り。むしろ、その赤い双眸はさらに凶暴性を増し、憎悪を煮詰めた光を放ちながら、再び僕めがけて直線的に突進してくる。単純な思考回路で助かった。


 眉間に皺が寄る。こんな出来損ないの化け物に、僕の貴重な時間をこれ以上割くつもりはない。僕は意識をさらに集中させ、念動力サイコキネシスの出力を一段階引き上げた。


 足元のアスファルトが広範囲に渡ってメリメリと音を立てて隆起し、巨大な壁となってアノマリー・ラットの進路を物理的に遮断する。それだけには留まらない。隆起したアスファルトの塊が、あたかも意思を持つ捕食者の顎のように、ネズミの四方八方を包囲し、その逃げ道を完全に塞いだ。


 ――ズドッ。


 押し潰す。ただ、それだけだ。


 アノマリー・ラットは苦悶の絶叫を上げた。必死に抵抗を試みているようだが、僕のサイコキネシスの奔流は、そんな無意味な生存本能を許さない。ギチギチと骨の軋む音が響き渡り、次の瞬間、破裂音と共に赤黒い体液が飛散した。


 アスファルトの塊が、仕事を終えた処刑人のように硬い音を立てて崩れ落ちる。そこには、見るも無残に圧し潰されたアノマリー・ラットの亡骸だけが残されていた。


 中洲の華やかな夜景を背景に、また1つ、僕の力が無用な破壊と死を生産した。この光景は、いつだって心の奥底に沈殿する陳腐な罪悪感を刺激してやまない。コスパが最悪すぎる。


 その時だった。異常事態を聞きつけたのだろう。複数のパトカーが、けたたましいサイレンを鳴らしながら現場に急行してきた。制服姿の警察官たちが、手に持った銃をこちらに向け、状況の異常さに困惑の表情を浮かべながらも、僕を取り囲む。交番が目と鼻の先とはいえ、大袈裟な話だ。


 この辺りはハシュマル機関によって封鎖されていたはずだが、と周囲を見渡す。


 なるほど。彼らは彼らで、中洲の酔客という名の、予測不能な民間人が現場に迷い込まぬよう、懸命に防衛線を維持しているらしい。僕に構っている暇などない、ということか。実に結構なことだ。


「そこの男、動くな! 何者だ貴様!」


 1人の年配警察官が、教科書通りの台詞を叫んだ。

 今夜は博多署でカツ丼でもいただけるのか。そんな益体もない思考が頭をよぎった、その刹那。背後から、低い、しかし有無を言わせぬ威圧感を伴った声が響いた。


「おい、この件は我々の管轄だ。お引き取り願おうか、博多署の皆さん」


 思考の海に沈んでいた意識が、突如として現実の岸辺に打ち上げられた。僕の背後に、いつからかひとつの気配が屹立していた。黒いスーツに身を包んだ、橘さんだ。


 年配の警察官は橘さんの顔を見るなり、明らかに狼狽した様子を見せ、慌てて無線機で何事かを確認し始めた。そして、みるみるうちに顔色を変え、他の警官たちに鋭い目配せをする。


「くっ……警戒を解け! これはハシュマル機関の『案件』だ。我々は周辺の交通規制及び民間人の避難誘導に専念する!」


 若い警察官たちは、その命令に納得がいかぬと顔に書いてある。不審そうな、非難めいた視線が僕と橘さんに突き刺さる。だが、上官の命令と、何より橘さんの放つ、日常から逸脱した存在の威圧感には抗えず、渋々と後退していった。

 彼らの背中を一瞥した後、僕は橘さんに向き直った。


「橘さん……」

「……よくやった、那縁。だがな、センサーに新たな反応が出ている。もっと大規模な『何か』が目覚めようとしている……」

 橘さんの言葉に呼応するかのように、僕は中洲の夜空に、一瞬、説明のつかない赤い光が明滅したのを見た気がした。足元の地面の奥深くから、地獄の脈動にも似た、不気味な振動が伝わってくる。


 こんな現象は、僕の記憶にない。今回の件はまだ終わってないのか。けだし、厄災というものは常に連鎖する。ひとつの終わりは、より大きな始まりの序曲に過ぎぬ、か。陳腐な教訓を、今まさにこの身で味わうことになるとは。実に、実に不愉快なり。


 僕は夜の闇、その先に潜む更なる厄災の気配を、ただじっと見据えていた。

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