明日の自分

職場を出たとき、空は少しだけ秋の気配を含んだ風を運んでいた。

駅までの道をゆっくり歩いて、電車に揺られて、自宅の最寄り駅を降りる。

家の鍵を開け、ただいまも言わずに玄関をくぐる。
バッグを床に置き、靴を脱いで、制服のままソファに座った。


制服の上着を脱いで、いつものようにソファに放り投げようとして──

それを思いとどまり、そっと背もたれに掛ける。

ふと、袖口のボタンが落ちかけているのに気づいた。


今朝も気づいていた。でも、見なかったふりをしていた。


だけど今日は、

どうしてもそのままにはできなかった。


裁縫箱なんて立派なものはない。

透明なコンビニ袋に、縫い針と、古びた糸巻き。

中学の家庭科で作ったままの、クタクタのピンクッション。


それを引き出しの奥から取り出して、

無言で針に糸を通す。


少しだけ手元が震えた。

部屋の明かりは暖かいはずなのに、針の先がにじんで見えた。


バニティネルをかけた


晋太郎が、ぽつりと口を開く。


「……ほんとに縫うんだな。そういうの、クリーニング屋に任せりゃいいのに」


「別に。今日のうちにやっておかないと、忘れるから」


「それ、今日のうちにやりたいからじゃねぇの?」


「……かもね」


ボタンを定位置に戻して、慎重に針を刺す。

指先に意識を集中する。


「昔の天竺なら、取れかけたボタンに気づいても「そのうちもう片方も外れてバランス取れるしいいか」とか言ってたぞ」


「言わない」


「いや言ってた。しかもわりとドヤ顔で」


「……」


針をくぐらせるたびに、糸が小さな音を立てて布をすべる。


──こんな時間、前はなかった。


仕事から帰って、制服を脱ぎっぱなしにして、

そのままソファでスマホを見て、なにも変わらない毎日だと思い込んでいた。


でも、今はちょっとだけ、違う。


今日の自分に、ちょっとだけ、続きを渡したい。

そのための、小さなひと縫い。


最後に玉結びをして、糸を切る。

縫い直されたボタンは、少し不格好だけど、確かに元の位置に戻っていた。


晋太郎が、ふっと笑う。


「……ほらな。お前、今日のうちに“やりたかった”んだよ。変わったよな」


「……変わってなんか、ないよ」


「じゃあ、戻りたくないだけか」


ちょっと黙ってから、私は言う。


「……それ、正しいかも」


制服をたたんで、クローゼットの扉を開ける。

アイロンはかけられないけど、今日はちゃんとハンガーにかけようと思った。


布がするりと滑って、揺れる。その音に、少しだけ明日の自分が近づいてきたような気がした。

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