2025年6月19日の日記

夢美瑠瑠

第1話

  

 この間もちょっと触れましたが、今日は桜桃忌と言って、太宰治さんの命日です。 玉川上水というところで情死した。

 誕生日も同じ。

 その前にも何度か自殺を図っていて、「人間失格」という自己処断は、そういう弱さ?ゆえに”オレは生きるのに向いていない”、という意味であろう。 


 「生まれてすみません」という有名なセリフも、あまりに世間から嫌われ、疎んじられる…少しも悪気がないのに、気が弱いというところから、世知辛い「欲張り」たちからいろんな嫌がらせをされ、で、遺書のセリフは「みんな、卑しい欲張りばかり。井伏さんは悪人です」。


 前に羽仁説子さんのエッセイを読んでいたら、「ずるさと身勝手さで塗り固めたような世間」という表現があった。


 なぜそういう表現が書かれたかというと、羽仁さんが福祉施設を訪問したときに、知的な障害の女の子がいるのですが、その子の腕に触れたときに、「あまりの細さに私は慄然として、ずるさと身勝手さで塗り固めたような世間を、のろい頭を抱えて、わたってきた苦労を思った」と、そういう文脈で出てくる。


 似たような、世間というものにあきらめを抱いている文章で有名なのは「草枕」の、「知に働けば角が立つ。情に掉させば流される。 意地を通せば窮屈だ。 兎角に人の世は住みにくい…」

 があるが、この文章だと意味は似ていても、「人の世が住みにくければ、人でなしの国に行くよりほかあるまい」と最後なっていて、絶望までしていない。


 太宰は、だからまあその知的障害の少女と五十歩百歩の落伍者、恥残者と、言ってしまえばそうかもしれず、三島由紀夫は彼の「苦悩」も、「そんなものは毎日冷水摩擦をして持続的に運動すれば消えるようなもの」と、一刀両断した。


 太宰の存在意義は、だが、その敗残者でしかないといえばそれだけの男が、現実に傑作をものにして、ある種の真実、「敗者の美学」の昇華された典型。そういう芸術となりえているからかもしれぬ。


 太宰治を慰安とする、人生に倦み疲れた弱者というか、生きる気力が弱体化している人々にとっては、太宰の小説は一種のバイブルみたいになるのだと思う。 キリスト教も結局は弱者の哲学? ニーチェさんはそういっていたようにも思う。

 オレも純然たる弱者中の弱者だが、もう一度、太宰治さんの作品を読み直してみたいなあ、とかそんな気もします。

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