第2話 揺れる未来、仮面の心

風が枝を揺らす。鈴の音が、境内のどこかで静かに鳴った。


 「ようこそ、羽隠神社へ」


ふいにかかった声に、永和は小さく肩をすくめた。


 「……あなた、誰?」


振り返れば、鳥居の影に佇む黒い髪の少年――黎が、微笑を浮かべてこちらを見ていた。


 「僕の名前は、黎(れい)だよ。案外、早かったね。そんなに現実が嫌だった?」


 「別に……ただ、なんとなく歩いてたらここに着いただけ」


素っ気なく答えたつもりだったが、黎はくすりと笑う。


 「ふーん。そんな思い詰めた顔しちゃって、親と喧嘩でもしたの?」


図星を突かれたようで、永和は眉をひそめた。


 「……なにが言いたいの」


 「べつに。ただ、そんな顔してる子が、ここに来るのはよくあることなんだよ」


黎はそう言うと、拝殿の奥にある池へと歩き出した。永和もそれに続く。


水面には、どこかの教室のような景色が揺らめいていた。朱色に染まる夕暮れの光が、窓から差し込んでいる。外は曇り空。どこか寂しげな雰囲気が漂っていた。


 「――これ、なに?」


 「夢の破片。誰かの強い想いの残り香みたいなもの。ふとしたときに心が揺れたり、諦めたり、強く願ったり……そういうときに生まれるんだ」


黎は指先で水面をなぞるように撫でた。波紋が広がり、次第にその教室が、眼前に現実のように立ち現れていく。


 「ちょっと、入ってみようか?」



黄昏に染まった教室の片隅。窓際の席に、桜井美咲が頬杖をついて座っていた。お調子者で、いつも冗談ばかり言っている彼女の顔は今、どこか物憂げだった。


永和はそっと傍に立つ。彼女には気づかれていない。黎が言っていたとおり、これは夢。永和はただの“傍観者”だ。


 「進路なんて、まだ先の話だし。ね?」


誰にともなく呟くように、美咲が言った。


 「親はさ、資格のある仕事につけとか、将来困らない職がいいとか……。うるさいんだよね、ほんと」


机に広げられたガイダンスのプリントに目を落とし、美咲は小さくため息をついた。


「夢なんてさ、見てもどうせ叶わないし。だったら最初から持たない方が楽じゃん」


その言葉に、永和の胸がちくりと痛んだ。


(……その気持ち、わかる)


美咲は、夢を持たないことで自分を守ろうとしている。でも、自分は逆だった。夢を持ちたいから、守られる道を捨てた。


まるで、違うようで、同じ場所で足踏みしているみたいだった。


だが、そうしながらも、美咲の指先は、机の端でくしゃくしゃになったガイダンスの紙を何度も触れていた。


――本当は、ちゃんと考えている。誰よりも、不安に思っている。


永和は気づかないうちに、教室の床に歩み寄っていた。何か言葉をかけたかった。彼女が抱えるその迷いに、寄り添いたかった。


 「……ねえ、桜井さん」


ふと、美咲が顔を上げた。夢の中で、永和と視線が交わる。それは、偶然ではなかった。――今だけは、想いが通じる時。


 「無理に夢なんて持たなくてもいい。でも、本当は持ってるのに、“無い”ふりしてるなら……少しだけ、それに触れてみたらどう?」


美咲の目がわずかに揺れた。


 「……わかんないよ。なにがしたいのか、どうなりたいのか。だけどさ、焦らなきゃいけない気がして……。なのに、怖いの」


 「うん。怖いのは当たり前。でも、きっと、今じゃなくてもいい。立ち止まるのも、少し戻るのも、悪くないよ」


窓の外に、うっすらと夕日が射し込み始めた。雲の隙間から差し込む光が、教室をやわらかく染める。


美咲は机の上のプリントをそっと伸ばし、手で折り直した。ページを一枚ずつめくりながら、ぽつりと呟く。


 「――私、何かやってみたいな。少しでも、自分で選べるもの」


その瞬間、教室の空気がわずかに揺れた。景色が淡く溶けてゆき、教室という夢の破片が、静かに消えはじめる。



気づけば、永和は池の前に立っていた。黎もまた、何も言わず隣に立っている。


 「……今のは?」


 「夢の中で、ほんの少し前を向けたら、それだけでいいの。言葉も、記憶も、目覚めたら全部忘れちゃうけど――想いだけは、きっと残る」


黎はそう言って、境内の奥を見やった。


 「まだまだ、見たい夢はたくさんあるんだ。ほら、次の破片も、すぐ見えてくるよ」


永和は黙ってうなずいた。胸の中で、何かが静かに動き出した気がした。

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