風のゆくさき、黎のまにまに

黎風ゆう

第1話 風の呼ぶ日、始まりの夢

窓の外で、風がひとつ鳴いた。

朝の陽ざしはまだ柔らかく、障子越しに広がる光が畳を淡く染めている。鳥の声が遠く、山の方から微かに響いてきた。


 「……ふぁぁ、やば。寝坊した……!」


白井永和は跳ね起きて、伸びっぱなしの前髪を手でぐしゃぐしゃとかき上げた。制服のジャージに袖を通しながら、柱時計に目をやる。


 「七時半……? ってことはあと十五分で家出なきゃじゃん!」


布団を蹴飛ばし、脱ぎっぱなしの靴下を片っ端から探す。畳の上をばたばたと走り回っていると――


 「永和ー、朝ごはん冷めるぞー!」


廊下の向こうから父の声が飛んできた。少しかすれた、でもどこか優しさの滲む声だ。


 「今行くってばー!っていうか、ちょっとは信じてくれない!?うちもう、高校生だよ!」


思わず叫び返すと、襖の向こうからくすっと笑うような気配がした。


――この家は、古い。築七十年の和風建築。障子も襖も、きしむ床も、今じゃちょっと珍しいくらいの田舎の家。けれど、永和にとっては生まれた時からずっとの“当たり前”だった。


..…ただ、最近はその“当たり前”がちょっと重たく感じるようになってきた。

 

永和は朝ごはんを勢いよく頬張りながら、身支度に大忙しだった。制服のシャツの袖を片手で引っ張りながら、ご飯をかき込むその姿に、隣で見ていた父がぽつりと呟く。


 「……大丈夫かなぁ、そんなに慌てて……」


その心配をよそに、永和は味噌汁を飲み干すなり玄関に走り、バタバタと家を飛び出していく。


高校に入って、はや三ヶ月。

新しい環境にもすっかり慣れた永和は、体を動かすのが得意で、今はバスケットボール部に所属している。

グラウンドを走るのも、汗を流すのも、勝ちたいって気持ちも全部、好きだった。


午前中の授業が終わり、教室の窓からはぼんやりとした夏の光が差し込んでいた。

永和はその光を見つめながら、教科書の余白に何とはなしに風車の絵を描いていた。


くる、くる、くる、と。

誰に触れられるでもなく、ただ静かに、回っているような——そんな風景を、どこかで見たような気がして。


 「……白い、鳥居……?」


小さく呟いたその声は、誰にも聞かれることなく空気に溶けた。


 「白井ー、起きてるかー?」


教壇から飛んできた声に、永和ははっとして顔を上げた。笑いがこぼれる教室。周囲の友人たちがクスクスと肩を揺らす。


 「す、すみませんっ!」


慌てて背筋を伸ばすと、先生は呆れたように眉を下げて苦笑する。


 「……ま、たまにはボーッとしてるのも悪くないけどな。ほら、次、ページめくってー」


放課後、体育館に響くバスケットボールの音は、永和にとって何よりも心地よいリズムだった。


駆け出し、ドリブルし、シュートを決める。汗をかくたびに、頭の中のもやもやがすこしずつ晴れていく。


 「ナイスシュート! 永和、今日キレてるじゃん!」


 「ありがと! なんか……走ってるとスッキリするんだよね!」


仲間と拳を突き合わせながら、永和は久々に笑顔になっていた。でも、その背後にはずっと、午前中に感じた“あの景色”の残像が、うっすらと残っている。

くる、くる、くる。風車が、音もなく回り続ける夢のような記憶。


 「今日ここまでにしよっか、おつかれー!」


部員の声がかかり、永和は「うん、おつかれ」と返してタオルを手に取った。体を動かすのは好き。でも、今日は少しだけ、気が重い。

 

家に帰れば――あの話題をしなくてはいけない気がしていたから。


その予感は、玄関を開けた瞬間に当たる。


 「永和、おかえり。ちょっと……話、いいか?」


和室で座っていた父・玲の声が、やけに真剣だった。

 

部屋の中央には、古びたスケッチブック。目をそらすようにリビングへ行こうとする永和を、玲が呼び止めた。


 「……見たんだよな? このスケッチ、前から触ってたの、知ってた」


永和はピタリと足を止めた。背中越しに、玲の声が静かに続く。


 「本当は、あれは見せるつもりなかったんだ。でも……永和には、見せないとって……」


 「なんにをそんなに怯えてるの!? ……うちが知らないところで、大事なこと、ひとりで抱え込んで……」


いつも何かを隠していることを知っていた永和は感情がこぼれて抑えようとしていた何かが、一気にあふれ出す。


 「ずっと、お父さんは“うちに何も起こってほしくない”って顔してる。でもそんなの、ちゃんと話してくれなきゃわかんないよ……!

……ねえ、うち、ずっと“子供”なの? なにも知らないままでいればいいの?」


玲は言葉を詰まらせたまま、黙っている。

その沈黙が、何よりも永和の胸を痛めた。


 「もういい!」


永和は靴を掴み、玄関の扉を勢いよく開ける。夕焼けの空が赤く染まり、風がひとつ、頬をなでた。


走った。無我夢中で、ただ足を前に出した。


(うちだって、ちゃんと知りたい……お父さんのこと。あの夢のこと。……あの絵のこと)


胸の中にぐるぐると渦巻く、言葉にならない感情。気づけば足は、山道へと入っていた。

 

誰もいない小道。葉の擦れる音と、土を踏む音だけが響く。


そして――その先に、白く長く連なる鳥居があった。


 「……これ……見たこと、ある……?」


朧げな記憶が、胸の奥から浮かび上がる。

鳥居はゆらゆらと、透けるように揺れていた。

風車がひとつ、誰も触れていないのに、音もなく回っている。


ふと、鈴の音が、どこからともなく聞こえた。

永和は、引き寄せられるように、一歩を踏み出した。


白い鳥居をくぐった瞬間――

空間が、歪んだような気がした。


風が巻き起こり、草が揺れ、木々がざわめき、そして視界が白く染まっていく。


 「――ようこそ」


耳元で、どこか愉しげで、透き通るような声がした。


目を開けると、そこは現実とは少し違う、でもどこか懐かしさのある神社の境内だった。風が優しく吹き抜け、木々の間で風車が静かに回る。


 ――永和は、夢の中にいた。

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