5 坂道

 そこからは坂道を転がり落ちていくようだった。


 リンネは一体なにが琴線に触れたのやら、不良で有名な坂口先輩と交際しはじめたと山崎から聞いた。


 そこから変わってしまったのだと、みんな言っているようだった。おれはリンネから遠ざかるように、それらの噂をまともに聞かないようにして、部活に打ち込んだ。


 三学期は過ぎて、先輩たちを見送り、二年生へと無事に進級する。


 バスケも成績も絶好調……と言いたいところだが、その日運動しているとアキレス腱が痛み、部活動をやらずに帰ることにした。アキレス腱炎だろうと予想がついていた。過去になったことがある。


 校舎のあちこちに散らばって練習する吹奏楽部の楽器の音をBGMに、めずらしくゆっくりロッカーの中を整理する。綺麗にした達成感を味わってから階段をおりて、靴を履き替え、昇降口を出ようとしたところだった。


 背の高い男子生徒と、女子生徒が通りかかった。


 男子生徒は髪が金髪。女子生徒は肩までの髪の毛を、明るい茶髪に染めていた。二人とも制服を着崩し、女子生徒なんかは限界までスカートを短くしている。どれもこれも校則違反だ。この学校じゃ珍しいことじゃないけど、それでも二人は派手な部類だった。


 おれはあまり関わり合いになりたくなかったので、目を伏せるようにしていたが、一瞬その女子生徒と目が合った。


 そこでようやく気付く。


 ――リンネだった。


 目が合ったのは一瞬のことで、リンネはすぐにおれから視線を外していた。興味なさげな、自然な顔だった。背後で彼女が笑いながら話すのが聞こえてきた。


 あまりの変わりように、おれは呼吸を止めて、横を通り過ぎた。


 艶やかな長い黒髪に、おとなしくも知的な雰囲気が、まったく消失していた。あんなに綺麗だった彼女の変化に、心がついていかない。


 帰って、病院に行き、湿布をもらう。


 アキレス腱炎は温めてはいけないので風呂はやめて、シャワーだけ。


 布団の中に入って、寝ようとしても気になって、ついに山崎にLINEで訊ねた。


「リンネって、なんか変わったのか……?」


「ああ、なんか知らんが、合唱部も辞めたって。成績も素行も悪くなってるらしい。女子からは逆デビューって言われてて、いまのほうが人気あるらしいよ。でも見た目のレッテル通りの行動をとってるみたいでなんか変だよな」


 と、妙に知的な返しをくれた。


「その喋り、アニメのキャラに影響されたのか?」


「かっこいいと思って真似してる」


「そうか」


 まあ、誰がどのキャラを真似ようが自由だし。あまり興味はないので、その日はそのまま寝た。


 朝、山崎に会ったときに疑問をぶつけた。


「もうリンネのことは、好きじゃないのか?」


「ああ、俺は黒髪ロングが好きだったみたいだ。茶髪のリンネちゃんにはときめかない」


 山崎はすっきりした顔で教えてくれた。


 山崎がリンネへの想いをすっぱりと断てたならよいのだが、おれはなんとなく、気持ち悪さを抱えていた。


 リンネに訪れた変化というものが、良くない兆候な気がしていた。





 アキレス腱炎のために部活に出るのをやめたおれは、なんだか学校がつまらなく感じ、昼からサボった。学校のすぐそばにある小さな公園で、ベンチに座って、ひさしぶりに本を開く。ずっと買ったまま読まずにロッカーに置きっぱなしになっていた、小学生のころから好きな作家・佐倉香澄の新刊だった。リンネと話した後に思い立って買ったのだった。もういまは新刊ではなくなっているが。


 陽が照り付けすぎてページの文字が読みにくい。木陰に入ったり寒くなって出たりを繰り返しながら、おれは読書に没頭した。


 近くの小さな保育園から、幼児の合唱が聞こえてくる。野良猫がのんびりと公園を横切る。


 とても、ゆったりとした時間だった。


 陽の当たる場所で本を読んでいると、ふと、翳った。


 不審に思い、顔をあげると、そこにはリンネがいた。


「やっほー、サボり?」


「あぁ、ぅ、うん」


 あまりに突然のことに声がひっくり返ってしまう。


「隣いい?」


「うん」


 リンネはすぐ横に腰かけた。親密さを感じる距離だった。


「それ、あの先生の本?」


「そうだよ」


「私、その先生嫌いになっちゃったーぁ、あはは」


 リンネがなぜそんなことを言うのかわからず、おれは戸惑って彼女の顔を見た。リンネの声色は、小学生の頃の〈僕〉をいじめていたやつらと同じ気配と、自嘲、どちらにも感じ取れた。


 カースト最下位であった過去を思い出し、おれは〈僕〉に戻ってしまい、するすると気持ちが萎む。


 〈僕〉は話しかけることもできず、視線を手元の本に落とした。


「……あのさ、私たち、出会わないほうがよかったね」


 長い沈黙のあとに、リンネはそう言った。


「……え?」


「住む世界が違ってたんだ」


 それは〈僕〉がはじめのころリンネに抱いていたイメージ。改めてリンネの口から発せられることによって、それは絶対のものとなり、〈僕〉のなかで固定される。


 〈僕〉の思考は、はやくこの場から去る方法を考えることに移った。


 なぜリンネが、偶然授業をサボってここに来て、話しかけてきたのか。なぜそんな言葉を口にしたのか。


 〈僕〉は想像力がなく、わからなかった。


「それ貸して」


「あ」


 リンネの手が、素早く本を奪いさる。そしてその本が宙を舞う――それがゆっくりに感じられた。空を舞った本はもちろん重力によって落下する。水たまりの中へ。


 ボチャン


 そんな音を聞いて、我に返る。


「な、なにして――」


「最初から私のことを救えないなら、中途半端に救わないでよ……」


 リンネは俯いて、笑っていた。


 明らかに様子がおかしかった。


 おれはここできちんとリンネに行動の理由を訊ねるべきだったのかもしれない。けれど、もうこれ以上傷つきたくない〈僕〉は自分の安全を優先した。


「……帰る」


 すなわち、撤退だ。


 荷物をまとめて、リンネを置き去りにして、〈僕〉は公園を去った。

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