第1話 御貫郷

 蝉たちが忙しなく鳴いている。

 滝のような汗が首筋を伝い、ワイシャツをぐっしょり濡らしていた。


 電気屋の前に並ぶテレビには、高校野球の地方予選が映っている。

 モーションを取る投手も、構える打者も、どちらも同じように汗を滲ませていた。


 クイックモーションから投じられた一球。

 タイミングが少し早かったのか、打者はぐっと引きつけ、力いっぱいバットを振り抜いた。


「高い! 伸びるか? 伸びたー! ……高校が、2回戦進出を決めました!」


 今、夏が終わった人たちがいる。


 ――自分は、どうだろうか。


 ふと空を見上げる。

 青すぎる空が、ただ広がっていた。


 急に手に入った自由の使い道が、何ひとつ思い浮かばない。


 ――そんなのは、贅沢すぎる悩みだろうか。


 ぐるぐると考えが回るだけで、答えは出なかった。


 そのとき、不意にクラクションの音が響いた。


「結月ー! 悪い! 待たせすぎた!」


 運転席から、中年の男が手を振っている。

 強い日差しの下なのに、どこか不健康そうな白い肌をしていた。


 僕の叔父、朝倉 惣一(あさくら そういち)だ。


「干からびるかと思ったよ……」


 ぼやきながら助手席に乗り込み、シートベルトを締める。

 クーラーの風が、濡れたシャツ越しに肌をひんやりと撫でた。


「いやー、急に仕事の電話が入っちゃってさ」


「“休日”って、休む日って書くんだよ、叔父さん……」


 “社畜”って言葉は、きっとこの人のためにあるんだろう。

 そんな短いやり取りのあと、車はゆっくりと走り出す。


 僕――朝倉 結月(あさくら ゆづき)は、これから転校先の高校へ向かうところだった。

 胸にあるのは、不思議と期待や不安ではなく――ようやく抜け出せた、そんな実感だった。


 


 「……き……づき……」


 誰かの声が聞こえた。

 気づけば、うとうとしていたらしい。


「結月! 着いたぞ!」


 目を開けると、目の前には叔父さんの顔。


「皺、増えたんじゃない?」


 思わず口をついて出た感想に、叔父さんは苦笑する。

 昔会ったときは、もっと若くて、体つきも引き締まっていたような気がする。


「これが大人になるってことだよ、結月」


 夢も希望もないことを、さらりと言い切る大人が、そこにいた。


 ……勘弁してほしい。


 シートベルトを外し、車を降りる。

 ぐっと体を伸ばした瞬間、右膝にずきりと痛みが走った。


「……平気か?」


 車に鍵をかけながら、叔父さんがこちらをちらりと見る。


「平気だよ。もう、痛くもなんともないから」


 ぐるりと周囲を見渡す。

 車内より暑いはずなのに、ここの空気はどこか涼しく感じた。


 青々と茂る木々。澄んだ空気。虫の声。

 鼻先をかすめる、草の匂い――。

 息苦しさとは無縁の景色が広がっていた。


「シティボーイには珍しいか! ようこそ御貫郷(おぬきごう)へ!」


 きっと、よほど珍しそうな顔をしていたのだろう。

 けれど、この静けさも、空気も、嫌いじゃなかった。


「ここ、気に入ったよ。叔父さん」


 そう言うと、叔父さんは少しだけ嬉しそうに笑った。


「三日で飽きるぞー。……とりあえず、手続きしに行くか」


 叔父さんが指さした先には、木々の中にそびえ立つものあった。

 鉄筋コンクリート造の、大きな建物。御貫学園高等学校(おぬきがくえん)がそこにある。


 山あいの町には、やや不釣り合いに思える立派な校舎。

 だが、コンクリートの外壁はところどころ苔に覆われ、窓のいくつかは黒く曇っていた。


「……思ったより、古いんだね」


 ぽつりと漏らした言葉に、叔父さんが「あー」と気の抜けた声で返す。


「まあな。でも、こっちで“新校舎”なんだからな。……旧校舎見たら、たぶんたまげるぞ」


「へぇ……」


 一歩、敷地内に足を踏み入れた。


 ――なんとなく、空気が重い。


 建物が静かすぎるせいか。

 それとも、蝉の鳴き声さえ弾かれているように感じたせいか――。


「ほら、行くぞ。事務室は入って右な」


 促されるまま、僕は校舎へ向かって歩き出す。

 砂利を踏む靴底の音が、やけに耳に残った。

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