第23話 皇后、猫と騎士を測る

 ——皇后付きの女官長補佐ミラによって、アベルの行動報告が行われた翌日。


 皇后クリスティナは、アベルとレイモンドをそれぞれ呼び出すことにした。

 いよいよ直接の対面を果たし、自らの目で真相を確認しようとしているのだ。


 ——まるで上司と部下の面談のよう。

 クリスティナはそんなふうに考えて、ひとり楽しげに声を立てて笑う。


 そうして行われた面談では、どちらにおいても正体を探りつつで——。

 誰ひとり一歩も譲らずとも、全員がアナスタシアを思う静かな覚悟を燃やす。

 そんな心情が交差する、豊かな時間を過ごすことになった。



 ◇


 ——-夜の温室庭園。


 離宮の奥にある、手入れの行き届いた美しい場所。

 普段は、管理者である皇后と手入れを任される庭師のみが立ち入りを許される、小さな温室がある。


 月光と魔灯の灯りが、しっとりと植物を照らして。

 そこにあるすべての命は『愛されている』と自覚しているかのようにイキイキとしている。


 今晩は、皇后クリスティナが珍しく一人で訪れた。

 女官も連れずたった一人、そこで誰かを待っているようだ。


 装いは豪奢なドレスなどではなく、黒いフードのついた外套。

 足元は、外套と揃いの生地で作られたブーツを履いて。


 しばらく待った頃、ようやく、お目当ての存在が現れた。

 音もなく、まるで爽やかな風のように。


 ——アベル


 アナスタシアのペット、黒猫の姿を借りた精霊。

 風の力を司どる守護精霊、漆黒の猫『アベル』が現れたのだ。


 クリスティナは、その気配をいち早く感じ取った。



「……来てくれたのね、アベル」


 

 猫は呼びかけに応じるようにして、静かに一歩前へと進み出た。

 だが決して鳴かず、姿も変えない。

 ただ冷ややかに、クリスティナを見上げるだけだ。


 その空気に耐えかねるかのように、クリスティナが細い指で髪留めを外した。

 美しい銀色の髪がサラリと背中に躍る。



「お前が『ただの猫』でないことくらい、初めからわかっていたわ。そして、娘を守ってくれる存在であることもね」



 アベルの瞳が、わずかに揺れた。

 クリスティナの声は淡々としているが、感情豊かに響くからだ。



「……でも一つ、どうしても聞いておきたいことがあるの。アナスタシアは、いったい誰?」



 それでもアベルは黙ったまま、歩を進めた。 

 やがて彼女の足元に来て静かに座ると、その目に試すような色を浮かべる。


 それに気づいたクリスティナは、面白そうに笑って。

 こう続けた。



「ずっと黙ったままでもいいわ。私が知りたいのは、敵か味方か、それだけよ」



 猫がふいに首を傾げた。

 そして一瞬のうちに力を解放すると、次の瞬間には立ち上がるようにして。

 月光に照らされた身体が揺らめいては、大きくなっていった。


 猫の姿から一瞬だけ、その姿を人間に変えたのだ。


 漆黒の髪と黄金色の瞳を持つ、美しい青年が立っていた。

 だがクリスティナの目に映ったことを確認すると、すぐさま猫の姿へと戻る。


 一秒にも満たない『変身』だった。


 クリスティナは瞬きもせず、彼を見据えて。

 驚いた様子もなく「……やっぱり精霊なのね」と呟いた。



 アベルは初めて、言葉を発した。

 口から発する言葉ではない——。

 直接クリスティナの内側に語りかける、精霊特有の言霊だ。



『我は、ただの傍観者ではない。アナスタシアを護り、この世界の『運命』を監視する者』


 

 クリスティナの眉がわずかに動いた。 

 

「……運命?」


『この世界の未来に『滅び』が生じたことは、そなたも感じているだろう。我々が目指すのは、その修復だ。アナスタシアと共にな』


「共に……それはどういうこと?」



 静寂が訪れ、クリスティナは小さく息を吐いた。

 そしてアベルを促すことなく、ただの母親に戻って口を開くのだ。



「あの子は……私の娘よ。どれほど秘密を抱えていようと護るわ。それがどこの未来にどんな影響を与えようと、受け入れる準備はある。ただ危険な目には絶対に遭わせないでちょうだい」


『その言葉が真か偽か……。これからじっくりと見極めさせてもらおう』


 

 アベルは音もなく立ち上がり、再び茂みの陰へと消えていった。

 クリスティナへ贈る、最後の言霊を残して――。



『ひとりの“母”であり、帝国の“国母”である者よ。アナスタシアを疑い試すことは、容易に“滅びの未来”を呼び寄せることになるやもしれん。そなたこそ、アナスタシアの“敵”とならぬよう、心して見届けるが良い。そしてこれだけは教えてやる。今世、アナスタシアは間違いなく、真にお前の娘だ』



 心の内に響く声は、葉のざわめきと共に名残を消し、温室には再び静寂が戻った。


 

「……アベル。まるであなた……未来を知っているかのようね」



 クリスティナは、久方ぶりに声を上げて泣いた。

 誰に聞かれる心配もない温室で、ただの母親に戻って。



 こうして終えた皇后と精霊の静かなる対面、それは果たして『真の同盟』になり得るのか。——そんなことは、誰にも分からない。


 だが、アナスタシアを起点とする親密な関係がまた一つ、新たに結ばれた。

 そのことだけは、紛れもない事実である。



 ◇


 アベルが去って、クリスティナも温室を後にした。

 今は離宮に戻り、次の約束に向け支度を整えているところだ。


 ここ皇后専用の応接室で、アナスタシアの護衛騎士と対面の時刻を迎える。


 ——クリスティナは、アベルと対峙した時にも増して、襟を正した。


 表向きは穏やかだが、その試すような眼差しと、言葉の裏に潜む揺さぶりにも似た圧は、非常に手強いものがある。


 それがクリスティナの知る、レイモンド・ハーフォース。


 皇帝陛下直属の護衛部隊ブラックスピネルで副隊長を務めていた彼を、厚く信頼して離宮へと派遣したのは、他でもない皇帝陛下だ。


 人柄もよく腕もたつ、そして何より家柄に間違いがない。

 誰にも文句を言わせない人選だった。


 だからこそ今日の面談は、アナスタシアを護るレイモンドにとって、己の信念を突きつけられる瞬間でなければならない。いや、自分がそう仕向けなければならない。クリスティナはそう思って襟を正したのだ。


 ——複雑な感情を抱えたまま、クリスティナはレイモンドを迎える。


 磨かれた大理石の床、深紅の絨毯。

 金の刺繍が幾重にも施された豪奢なソファ——。

 クリスティナはドレスに着替え、そのソファにゆったりと腰を下ろした。



 目の前には、一人の青年騎士が跪いている。

 アナスタシアの護衛騎士レイモンド・ハーフォース、その人だ。


 珍しく緊張の色が見てとれる。

 彼の背筋はピンと伸び、視線は伏せられたままだ。

 だがしかし、その内に秘める警戒の色——。

 どうやらそれはまだ、失われていない。


 そのことに気付くと尚更、クリスティナはレイモンドを注意深く観察して。

 意地悪な問いすら投げかけてやりたくなる。

 そんな落ち着かない気持ちにでいるのだった。



「……お呼びいただき光栄にございます、陛下」


「顔を上げなさい。今日は報告を求めるつもりはないわ。あなたと一度……腹を割って話したい、そう思って来てもらったのよ」



 クリスティナの声は穏やかだった。

 だが以前の記憶を辿ったレイモンドには、別の不安がよぎる。

 クリスティナの言葉選びの巧みさ、それには常に驚かされてきたからだ。


 レイモンドは、ゆっくりと顔を上げた。

 そして恐る恐る、その表情を眺め、視線を合わせる。



「アナスタシアを、よく見守ってくれているわね。貴方の忠誠心には、深く感謝しているのよ。だから私からも礼を言います。……けれど」



 ——クリスティナは、白い指でソファの肘置きをなぞった。



「ときに『忠義』とは、誰に対して果たされるべきものかしら?」



 ——沈黙を守るレイモンドの表情は、全く変わらない。

 だが頭の中では、フラッシュバックを繰り返して——。

 皇后の恐ろしい姿が、蘇っては消えていくのだ。

 その心境を思い出すと、容易に緊張を拭い去ることはできない。



「…………(来たな)」


「皇女に? 皇族に? それとも……帝国に……かしら?」



 クリスティナの言葉は『問い』であると見せかけ、その実——巧みな『罠』。

 どの答えを選んでも必ず、何かを裏切るようにできている。


 レイモンドはしばし目をとじ、静かに答えた。



「……騎士として……それを考えるなら、陛下の仰るすべてに忠義を尽くすべきかと存じます。されど、命を賭して守るべきは『ただお一人』——。私の心が、そう定めております」

 


 ——クリスティナは目を細め、レイモンドを覗き込むようにして続ける。



「なるほど、そうなの……『ただ一人』……ね、それはアナスタシアかしら?」


「……はい、陛下の仰るとおりでございます。アナスタシア殿下は、帝国の未来であり、私にとって『この命の価値』を定めてくださったお方です」



 簡潔ではあるが、確固とした意思と主への思いがこもった声だった。


 それは、表向きの忠誠でもなければ、体裁を気にした建前でもない。

 レイモンドの『信じる者』へ捧げる覚悟、そのものがこもっているのだ。


 

 クリスティナはしばし思いにふけり――、やがてふっと笑った。



「……いいわ。嘘をつけないところもまた、彼女の護衛に相応しい。それなら、ここで改めて伝えておくわ。アナスタシアに対するあなたの忠義が本物なら、たとえ私を『敵』として疑う日が来ても、その信念を貫きなさい。けれど……もしも貴方の忠義が、娘の未来を歪めるようなことがあれば……私は決して容赦しないわ。レイモンド、貴方がどんなに優秀な騎士であってもね」

 


 レイモンドは、微動だにしなかった。

 意外にも、目の前に座する二つ名『帝冠を食らう銀狼』は温もりを感じさせて——。

 なによりも『母』の顔を見せたからだった。


 隠そうと纏った鎧の隙間から、隠しきれずこぼれ落ちた母の顔。

 それは今までの印象を覆す、彼女の意外な一面だった。


 

「その時は……剣ではなく、言葉でアナスタシア殿下をお護り致します。そして皇后陛下の真意を汲み取る努力も、決して惜しまないとお約束いたしましょう」


 

 クリスティナは再び目を細めると、レイモンドに背を向けた。

 それはまるで、面談を終えた上司が「さっさと仕事に戻れ」と部下に言う姿。



「……では行きなさい、護衛騎士レイモンド。お前がその忠義を最後まで貫けるか、この私が見届けてやろうではないか」

 


 レイモンドは静かに礼をして、速やかにその場から下がった。

 底冷えするクリスティナの声に気圧され、全身にじわりと汗をかきながら。



「…………(相変わらず、ただ者じゃないな)


 

 それでも心には、新たな気持ちが一つ。



「俺は、アナスタシア殿下の未来を護る。帝国の未来よりも先にな。だから陛下、まずはあんたが力を見せてくださいよ」



 騎士は決意と共に、また一歩、影の戦場へと足を踏み入れる。

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