第24話 春の訪れ、別れの時

 春の訪れとともに——

 私とトリアージェがこの離宮で暮らすようになって、三年が経つ。


 本来なら、私たちが四歳を迎えるこの春、離宮での生活も終わるはずだった。

 それはお父様が定められた期間でもあったのだけれど——。


 私たちがここに来るきっかけとなった「温室爆破事件」の調査が、いまだ終わっていないというのだ。


 もっとも、私たちもまだこの場所に未練がある。

 離宮には、まだやりたいことがたくさんあるのだ。


 だから正直なところ、期間延長は嬉しい知らせだった。

 もちろん、私たちはまだ三歳だから、すべてお母様が決めて下さったのだけれど。


 皇后としての務めを持つお母様は、もうこれ以上、皇城を留守にすることができないという。私たちを護衛の騎士と精霊に託し、首都へ戻る準備を始めた。



 ◇



 三年の時は、瞬く間の出来事だった。


 離宮で過ごした月日は、私たちにとってかけがえのない時間だ。

 お母様と、こんなにも近くで、たくさんのことを話せたのだもの。

 もしあのまま首都に残っていたら、こんな生活は送れなかっただろう。


 もちろん、とっても寂しい。

 でも、それ以上に満たされているんだ。

 この心地よい春風が、背中をそっと押してくれる気がして。



 そうしてその風に吹かれて、お母様の銀の髪がふわりと揺れた。


 お母様——クリスティナ皇后。

 この国の皇后であり、私たち双子の実の母でもある人。


 彼女は今日、首都へ戻ってしまう。


「……ねぇお母さま、明日からもう一緒にいられないの?」


 私——アナスタシアは、そう尋ねながら、母の袖をぎゅっと掴んだ。

 言葉にしたら、なぜだか急に涙が溢れる。


「お母さま……アージェも、ちゃんとお利口にできます……だからぁ……っ」


 トリアージェの声は震えていた。

 寂しさを押し殺しながら、精一杯の強がりで。


 優しく私たちを抱きしめて、お母様は静かに言った。


「ごめんなさいね。本当は、ずっとそばにいたいの。でも——お母様には、この国を守る仕事があるのよ。『お母様』じゃない、もうひとつの顔があるの」


 その声は穏やかだけれど、深い悲しみを感じさせて——。

 私たち姉妹にとっては、腕の中で感じる温もりこそが全てだった。



 ◇



 その時、ふわりと風が吹き抜け、一匹の三毛猫が現れた。

 白、黒、茶が混ざる美しい毛並み——。

 その琥珀の瞳が、静かに皇后を見上げている。


「……ノエル」


 お母様がその名を口にすると、猫の姿はすっと変化した。

 猫耳(垂れ耳)を残したまま、細身の女性の姿へ。

 彼女は、精霊ノエル——お母様に長年仕えてきた守護精霊だ。


「遅くなりました、クリスティナ。……いいえ、皇后陛下」


「今だけは『お母さま』でいたいの。あなたも、それを望んでくれるのでしょう?」


 ノエルは黙って頷いた。

 そして今、彼女は新たな使命のもと、私たち双子の傍に降り立ったのだ。


「ノエル、この子たちを守って。どんなことがあっても……お願いよ」


「承知いたしました。この命ある限り、たとえ世界が歪み……私の魂が散ろうとも、このお二人に牙をむくすべてを許しません」


 ノエルは片膝をついて、私たちの手を包み込んだ。

 その額には、淡く光る三日月の紋章が浮かんでいる。



 その直後のことだった——

 もう一つの気配が、静かに私たちの前に現れる。


 黒衣に身を包み、黄金色の瞳をした少年。

 私の契約精霊、アベルだ。


「離宮は世界の歪みからは遠いが……だからと言って、完全に安全なわけじゃない。だが俺は、アナスタシアを正しき未来へ導く者だ。心配するな、必ずや、この子を守って見せよう」


 アベルの声は冷静だったが、確かな優しさがある。

 お母様は少しのあいだ目を閉じて、そっと頷いた。


「ありがとう、アベル。……あなたならいくらでも『答え』を見つけられるはずよ。だからどうか、この子たちと共に、それを見つけてあげてちょうだい」


 アベルの黄金色の瞳が、わずかに光って——。

 それは確かに、未来を見る者の眼差しだった。



 ◇



 別れの時は、すぐにやってきた。


 首都へ向かう馬車が、離宮の門前で待機している。

 その前でお母様は、私たち双子をしっかりと抱きしめてくれた。


「アナスタシア、トリアージェ。……お母様は、いつもあなたたちを愛してる」


「うん……わたしたちも、大好き」


「また会えるよねぇ……?」


「もちろんよ。あなたたちは、私の光なの。何があっても、必ず迎えに来るわ」


 私たちは小さな手を握りしめ、ふたり揃って頷いた。

 その姿に、母は穏やかに微笑んだ。


「たとえ二人が世界に拒まれても——私は必ず、あなたたちを愛するわ。そして忘れないで。精霊たちが、いつでも二人の傍にいるということを。『紅い瞳』は、決して呪いなんかじゃない。これは、運命に抗う皇族にだけ与えられる——『希望の色』なのよ」


 そう言い残して、お母様は馬車へと向かう。

 扉が静かに閉まって馬車が石畳の道を進み出すと、私たちはその背を言葉もなく見送るしかなかった。



 お母様の残り香が、春の風と共に舞って——。

 今でもまだ、私たちの周りにふわりと漂っている。

 

 

 ◇



 馬車を見送ってしばらく、私たちは呆然としていたのだけれど。

 そのとき、ノエルが私の肩にそっと寄り添って、こう言ってくれた。


「あなたたちは、決して二人きりじゃないわ。……この目の意味、その理由を、きっと見つけられる日が来る」


 アベルもまた、そっと私たちの前に立つ。

 そして楽しげな表情で、猫のような瞳を輝かせながら言った。


「始まるな。未来を変える旅が——」


 私はトリアージェと目を合わせ、ゆっくりと頷いた。

 そして今、私たちには、精霊以外にも共に旅をしてくれる存在がいる。



 トリアージェの傍らには、落ち着いた佇まいの若き騎士セシル・ヴァルト。

 鮮やかな金髪と菫色の瞳、まだ少年ぽさの残る笑顔がチャーミングだ。

 護衛騎士任命式のすぐ後からトリアージェの専属護衛を務めており、今日も彼女のすぐ後ろに控えていた。


 初対面がこんなに遅くなるなんて、思ってもみなかった。



「……アージェ、大丈夫?」


「うん、セシルがいるから。全然平気!!ね?」


「もちろんです! ずっとおそばにおります」


 息の合った様子が、とっても微笑ましい。

 するとセシルが私に気づき、姿勢を正して向き直る。


「あっ……失礼しました。アナスタシア殿下でいらっしゃいますね? お初にお目にかかります。トリアージェ殿下の護衛騎士、セシル・ヴァルトと申します。どうぞよろしくお願いいたします!」


「こちらこそ、よろしくね!!アージェのこと、守ってね」


「はいっ!」


 明るい返事に、思わず笑ってしまう。

 なるほど、トリアージェと気が合うはずだ。


 一方、私の隣に立つのは、相変わらず暑苦しいほどの忠誠を貫くレイモンド・ハーフォース。長身で凛とした佇まい。私がどんなに不安な時も、決して知らんぷりせず、支えてくれる人。


「殿下……皇后陛下のご出立に伴い、今後はさらに気を引き締めて、御身をお守りいたします。どうぞご安心を」


「ええ、レイモンド。よろしくね」


私の言葉に静かに頷くと、彼はそっと手を胸に当てた。

その仕草を見るだけで、なぜだかいつも、心が落ち着くのである。

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