いつの記憶か

 夢を見た。



 風の音と水の音が混じる、白く滲んだ世界。僕はそこで、誰かを待っていた。


 誰だったかは、思い出せない。ただ、待っているということだけが確かだった。



 目を覚ましてからもしばらく、胸の奥に白さが残っていた。それは朝の光と似ていた。




 日記を開くと、いつもと少し違うページが挟まっていた。破られたような端。文字は震えていた。


 「名前を思い出した。」


 それだけが、ぽつんと書かれていた。



けれど、そこに続くはずの名前はなかった。思い出したのは、昨日の僕だろうか。


それとも……




 思い出すべき記憶は、思い出した瞬間にまた消えてしまうらしい。



 それはまるで、夜の夢のようだ。起きた直後にははっきりしていたのに、朝の支度をする頃にはもう何も残っていない。


 そうやって、何度も繰り返しているような気がしていた。




 ひとつ、心当たりのある風景があった。



 川の近く、鉄橋の下、雑草の茂み。いつもなら行かない場所。けれど今日はそこに行かなくてはいけない気がした。


 その場所は、僕の知らないはずの懐かしさを湛えていた。



 風が頬をなぞる。鳥が、二羽だけ飛んでいく。


 草むらの中に、落ちたままのマフラーがあった。色褪せていて、でも柔らかそうで、
なぜか胸の奥がぎゅっとなるような、そんな布だった。


 僕はその場に座り込んで、空を見た。



 どうしてだろう。涙が出そうだった。

 



 日が暮れるのを待つようにして、僕はそこに長くいた。



 川の音が、胸の奥に染み込んでいく。空の色が刻々と変わっていく。


 そして、ふと誰かが隣に立っていた。



 気づいたときにはもういた。気配も音もなかった。


 横顔だけが見える。その顔を僕は知っていた。


 「あ、やっと気づいた?」


 声は、風の音に混じってしまいそうに静かだった。けれど、確かに聞こえた。


 僕はうなずく。言葉は出なかった。


 「思い出せなくてもいいよ。あなたはちゃんとここに来たから。」


 その言葉が、まるで合図のように、世界をゆっくりと揺らした。




 その人の横顔を、僕は見つめていた。


 見覚えがある。でも、名前が出てこない。感情の奥底にだけ、確かな輪郭でいる人だった。


 「ずっとここにいたの?」



 その声は、繰り返し夢の中で聞いた気がした。


 だから、僕はうなずくしかなかった。


 「わたしのせいなのかな」



 そう言って、その人は目を閉じた。まるで思い出を撫でるように。


 「でも、これはあなたが作った状況で、あなたが思い出さなきゃいけないことで、あなたが解決しなきゃいけないことなんだよ」



 何を言ってるのかわかんないだろうけどね。と続ける彼女のその言葉に、心がざわついた。


 「君は……知ってるの?」


 と、僕はかすれた声で問いかけた。



 「どうして、ここにいるのか」


 その人は、首を横に振った。



 「知らない。心当たりはあるけど」



 そして、少しだけ笑った。悲しみとも安らぎともつかない、けれど優しい微笑みだった。


 「あなたも、きっと思い出す。ただ、それが良いことだとは限らないけどね」

 



 僕の中で、何かが動いた。



 川の音が遠ざかっていく。風の温度が変わる。



 まるで、世界そのものが僕の呼吸と同調しているようだった。


 「……ねえ、君の名前は?」


 その問いに、彼女は答えなかった。



 代わりに、小さな紙切れを渡してきた。何か書かれている。けれど、読めない。文字が滲んで、焦点が合わない。


 目を凝らそうとしたとき、不意にその手が離れた。



 紙は風に乗って飛び、川へ落ちた。


 「……あれ?」


 視界が暗くなった。体が沈んでいく感覚。



 目の前の彼女が、すうっと白く霞んでいく。世界が、音を手放していく。


 僕は、再び目を覚ました。

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