それでも僕は
咲樹
いつも通りの目覚め
カーテンの隙間から光が差し込んでいた。眩しいわけでもなく、暖かいわけでもない、ただそこにあるだけの光。
僕はしばらく、ぼんやりと天井を見つめていた。何かを思い出そうとしていたのかもしれないし、何も考えていなかったのかもしれない。
隣に誰かがいたような気がして反射的に手を伸ばすも、シーツの冷たさだけが指先を包んだ。ああ、そうだった。そうだったかもしれない。
昨日も、こうして目を覚ました気がする。もっと前にも。もっとずっと、前にも。
家の中は変わらない。
観葉植物は今日も元気で、時計はちゃんと動いている。朝食用のパンが切れていたのも、たぶん偶然じゃない。わざと買わなかったんだ。どうせ食べないから。
窓を開ける。通り過ぎる車の音、鳥の声、遠くで鳴るサイレン。それらが世界の存在を証明していた。
でも、どれもどこか、遠い。
愛するって、どういうことだったっけ。
胸の奥で誰かを求める感情が確かにあった。でも、いつからかそれが痛みに変わった。
君を思い出すと、あまりにも鮮明で、でもどこか嘘みたいだった。
ぬくもりも声も、まるで記憶がつくった幻みたいで、僕はそれを確かめる術を持たない。
きっと、何かを間違えたんだ。
でも何を? いつ? どうして? それすら、はっきりとしない。
ふと、誰かの背中が浮かぶ。
遠くを歩く影。姿ははっきりしない。だけど、その歩き方、その距離感だけは、どうしようもなく懐かしい。
いつも、あの背中を追いかけていた気がする。
届きそうで届かない。
その人が止まってくれれば、僕は追いつけるかもしれないのに。
けれど、あの人は一度も振り返らなかった。どこかへ向かって、まっすぐに、ただ進んでいた。
僕はと言えば、まだここにいる。
立ち止まって、目を閉じて、時間の気配をただ眺めている。
夜になると、胸の奥で何かがざわめく。
名前のつかない感情、奥歯に詰まった棘のような記憶。
もしかすると、僕はまだ終わらせていないのかもしれない。
何かが未完のまま、置き去りにされたまま、時間だけがぐるぐると回っている。
そして僕は、そこに取り残されている。
冷たい風が、わずかに頬を撫でた。窓を閉め忘れたらしい。
でもその冷たさは不快ではなかった。何かを確かめさせてくれるようだったから。
自分の肌に触れてくるものが、まだこの世界にあるということ。感覚が失われていないということ。
こんな風に、少しだけ世界を感じる瞬間が、ときどきある。
部屋の片隅に置かれたノートを手に取る。何かが書かれているページと、何も書かれていないページが交互に並んでいた。
書いたのは、たぶん僕だ。だけど、それを読んでも思い出せない。
まただったとか、今度こそとか、そんな言葉が繰り返されていた。
どうやら僕は、何かを忘れないようにしていたらしいけれど、思い出そうとするほど、かえって遠のいていく。
記憶が靄に包まれる感覚。頭の奥がじんわりと痛む。
無理に取り戻そうとしないほうがいい気もした。そうすることで、きっとまた同じところに戻ってしまう。
……それが何を意味するのかは、分からなかったけれど。
夕方、外に出る。空の色が微妙に変わっている。金と藍が滲んで、どちらでもない色になる瞬間。
あの色が好きだった、とふと思った。誰が、だったのだろう? 僕か? それとも......。
ふと、何かの影が視界の端をよぎる。振り向いた先に、人が歩いていた。
後ろ姿。どこかで見た気がする。いや、何度も見ている気がする。
細い肩、ゆるやかな腕の揺れ、地面を選ぶように歩く足音。そのひとつひとつに、既視感が宿っていた。
咄嗟に足が前に出た。
でも、声は出なかった。
追いかけるのが怖いのだ。
もしその背中が振り向いて、誰か知らない人の顔だったら。
あるいは、本当に“あの人”だったら……そのどちらも、想像するだけで心が凍るような気がした。
だから僕は、ただ立ち尽くす。
背中が遠ざかっていくのを、音もなく見送る。
その人が角を曲がった瞬間、また世界が音を取り戻す。
夜が来る。眠る準備は、毎晩の儀式のようになっていた。
同じ順番で電気を消し、同じ姿勢で布団に入る。
何も考えないようにして、目を閉じる。
それでも、胸の奥にはいつも同じ問いが残っていた。
何かを忘れている気がする。
どうすることもできないまま、また一日が終わる。
まるで、どこにも辿り着けないまま回り続ける輪の中で、僕だけが取り残されているような夜。
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