第一章 第一話「気づかれない涙」

目覚めると、視界は霞んでいて枕はほんのり湿っていた。無防備にめくれた寝衣と床に追いやられた布団が視界に入る。


「またか⋯」


瞼を擦り、上半身からゆっくりと起き上がる。

ふらふらと洗面所に向かい、灯りをつけ、寝惚けた顔をぬるま湯で三回ほど、ぴしゃぴしゃ洗う。


どんな夢を見たんだっけ、もう何も覚えていない。

手で喉から胸のあたりに触れる。指に滴る雫が寝衣をさらに湿らせる。

胸の奥がまだ、水面のない海の中に沈んでいるような感覚が残っている。苦しかったような、悲しかったような気がする。


重い瞼をゆっくりと開け、鏡に映る自分を見る。

柴染色ふしぞめいろの長髪に金色の瞳。

ふと思い出すかのようにカラーコンタクトを瞳に浮かべる。


「これでよし」


ほんのり黄色味がかった黒い瞳がこちらに承諾を求める。

これが普通の十六歳。これが平和にいられる手段。


洗面所を後にしようとして、横目で髪の変化に気づく。


「あ、ここ少し色…はやいなあ」

あとで美容室に行かなくちゃ。すぐにでも予約しなくては。

ああ、面倒だ。


そうして学校へ向かう支度を済ませ、何も言わずに家を出る。


望月スピカ十六歳。

今日から二週間目の高校生活が始まる。


夢も希望もない。

あるのは愁苦辛勤しゅうくしんきんの使命と、平穏を望む生きた骸だけ。



まだ見慣れない教室、見慣れない空気。

後ろから二番目の窓際の席に着席して、自分の空間だけを占拠する。

次の授業の準備も荷物の整理もすぐに済ませた。


すると、何も届かないはずの空間に、誰か自分を呼ぶような音を感じ、その音の方向へ顔を上げる。


「–––スピカ! おはよう」


ハッとし、空間がほんの少しだけ広がる。

スピカは慌てて微笑みをみせる。


「あ、おはよう真希ちゃん、気づかなくて……ごめんね」


「ううん、いいよいいよ、いきなり話しかけちゃってこちらこそごめん」


朝から謝罪しあいたいわけじゃない。

だけどいつだって真希ちゃんには気を遣わせてしまう。

こんな自分が嫌だと、ことが起こるたびに考えてしまう。

これだけで数分は悩める、下手したら一日中、いやしばらく考えこんでしまう日だってある。


いつかこんな性格を直したいと思ったことがあるけれど、上手くいかない。

誰かに相談するにも、わたしにとって友達のような存在は真希ちゃんだけだ。

真希ちゃんのことを“友達”って呼んでいいのかすらも……。


「スピカ!」


「わっ! どうしたの?」


「ま〜た難しい顔してたよ、何かあった? 私でよければいつでも相談してね」


「うん、ありがとう。でも何ともないから大丈夫」


また、笑顔になってみる。

これで安心させることはできただろうか。


真希ちゃんは優しい。

優しいけど、優しいだけじゃわたしの本心を明かすことはできない。


ごめんね、真希ちゃん。

まだあなたには、わたしの本当の姿も、わたしが異世界から来た夢救導士むきゅうどうしだってことも教えられないの。


それがお父さんとの約束だから。



昼休み。いつものように真希ちゃんがわたしの席まで来てくれる。


「スピカ、今日お昼どうする?」


「いつも通りでいいよ、屋上行こうか」


「了解〜!」


教室を出て行くとき、どこからか誰かの視線を感じた。

振り向くと、教室の入り口に見知らぬ男子生徒が立っていた。


(あれ……?)


彼は、わたしじゃなくて真希ちゃんを見ていたのかもしれない。

でも一瞬、目が合ったような気がした。


その少年–––天野朔あまのさくは、真希の口から「スピカ」という名前が出た瞬間、まるで心臓を掴まれたような顔をしていた。


「……スピカ……?」


微かにそうつぶやく声が、誰にも聞こえないほどの小ささで漏れた。

彼の胸の奥で、忘れていたはずの何かが、そっと目を覚ましかけていた。

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