夢救導士スピカ

瞳月レイ

プロローグ


あの日見た夢は、ただの幻想じゃなかった。

僕は今でも、あの草の香りも、君の目も、あの名前も――すべてを覚えている。


なぜなら僕はあのときの空気をはっきりと覚えているから。正確にいえば、“思い出した“から。


あのときの君の顔も名前もその姿も全部、はっきりと覚えているから。




瞼を開くと、一面に草原が広がっていた。草花は肩を寄せ合い、カサカサと葉を撫でている。

優しい風が僕の身体をすりぬける。心地よい風だ。


「ここはどこだろう」


広がる草花の香りも土の香りもその感触も、まるで本物のようで、とても夢だとは思えなかった。


電柱ひとつない荒野だが、なぜだろう。遠くの花までよく見える。


僕はパジャマのまま、空を見上げた。


「わあ!」


空には数多の星が瞬いていた。

星を眺めていると、だんだん視界が遠くなっていく。


途端、一冊の本を勢いよく閉じるように、風も音も体も動かなくなった。


周囲には誰もいない。さっきまで傍にあった花がどんな表情をしていたのかさえ、判別がつかなくなる。花々は枯れ、空気は冷え、喧騒感だけが募っていく。

自分の声すら、どこか遠くに行ってしまうような感覚だった。


「怖い⋯」


そう言ったとき、自分の声が震えているのを初めて知った。泣いてるんだ、って気づいた。もうずっと、ここに一人で閉じ込められていた気がしたから。


そのとき。


遠くから、光が近づいてきた。


 小さな足音がして、細い腕が僕の手を取った。光の中心にいたのは、自分と同じくらいの年の、白っぽい髪の女の子。目はすごくきれいな金色で、だけどその表情は淡々としてた。


「もう、大丈夫」


 彼女の声は小さくて、でも胸の奥に届くくらいに真っ直ぐだった。


 彼女は僕の手を引いて、歩き出した。真っ暗だった世界に、星のような光が一つずつ灯っていった。足元に花が咲いて、空に月が昇って、景色が色づいていって。少しずつ、世界が息をし始めた。


「きみ、誰……?」


 僕が尋ねると、女の子はふっと微笑んだ。


「……わたしの名前は、スピカ。星の名前だよ」


「星……?」


「うん。すごく、遠い場所にある星。でもね、誰かの心に触れたとき、ちょっとだけ近くに来られるんだって」


僕には、彼女が何者なのかはわからなかった。

ただ一つだけ言えるのは、あの瞬間、彼女は光そのものだった。


「ねえ、また……会える?」


 そう聞いたとき、スピカは少しだけ困ったような顔をした。


「……ううん。わたしのことは、すぐに忘れる。でも、きみはきっと、もう大丈夫だから」


彼女の手が離れたとき、世界は真っ白に弾けた。光が満ちて、僕は目を覚ました。


 現実の朝が来たのに、涙が止まらなかった。記憶が残っているうちに、短くなった芯の潰れた鉛筆で自由帳に書きなぐった。書けば書くほど、次第に忘れていってしまう。


だけど、あの名前だけは、どうしても忘れられなかった。


 ――スピカ。


それは、星の名前。遠いどこかにいる、光の中の女の子。


僕の記憶に、永遠に刻まれた、はじまりの夢。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る