夏休み〜大学見学〜編
第29話 3人の食卓
奏雨と旭の家のダイニングキッチンは、使い込まれた木のテーブルと、家族写真が飾られた壁が温かい雰囲気を醸し出していた。温かい湯気が立ち上る夕食を囲んで、奏雨、旭、律の3人が食卓についている。律が泊まりに来ることは幼い頃からたまにあるため、奏雨は特に気にも留めていない。
しかし、今日の奏雨はどこか様子がおかしい。
皿に盛られた料理を前に、視線が定まらず、箸の動きもひどく遅い。
まるで意識がここにあらず、心ここにあらずといった様子で、食事の味も分かっているのかいないのか、ぼうっとしたままご飯を口に運んでいる。
その奏雨の様子を、旭と律は訝しげに見つめていた。
旭は、あえて手話を使わず、隣に座る律に小声で尋ねる。
「なにこいつ、なんでこんなボーッとしてるの?」
律は、呆れたようにため息をついた。
「さあな。こいつ演劇の途中で出てってさ。」
旭は、黙ってご飯を口に運びながら「うん」と相づちをうつ。
「それで、演劇終わったあと、この状態だった。」
律は、奏雨をちらりと見て言った。
旭は、温かいスープを飲み込みながら「おう」と短く返し、視線で「で?」と律に促した。
「え、だから、演劇の途中に出てって、それで、これだよ。」
律は、心底うんざりしたように再び説明する。
「どう考えても、その間にあったことが原因だろ。」
旭は、律の要領の悪さに呆れて言った。
「だーかーら、俺はその間にあったことはなにも知らないんだよ!」
律は苛立たしげに声を荒げ、勢いよくご飯を食べ始めた。
そんな二人の様子から異変を察した奏雨は、「ふたりがなんか喧嘩を始めたな」と、どこか呑気な様子でぼうっと二人を見ていた。彼自身は、まだ何が起こったのか、その意味を消化しきれていなかった。
旭は、二人が一緒に帰宅した時のことを思い出していた。
いつものように玄関のドアが開く音がしたので、旭が迎えに出ると、そこにいたのは奏雨と、いつものように「おじゃましまーす」と陽気に言いながら玄関に入ってくる律だった。
その時、旭は、二人から何か異様なものを感じ取ったのだ。
それは、言葉にはできない独特の雰囲気。まるで、二人の周りに、普段とは異なるオーラのようなものが干渉され、その残り香がまだ漂っているかのような感覚だった。以前、奏雨を保健室に迎えに行った時と同じ種類の「何か」が起こったのだと、旭の昔から鋭い勘が告げていた。
しかし、こうして改めて様子を伺ってみれば、奏雨は目の前の現実から意識が飛んでいるかのようにボーッとしており、律は相変わらず何も察していない鈍感なままだ。また何かに巻き込まれたのは確かだろうが、巻き込まれた当の二人に自覚がない。これ以上聞いても無駄だと判断し、旭は事情聴取を諦めるのだった。
夕食を食べ終えて、食器を片付けた後、三人はリビングへと移動した。律が持ってきたデザートのフルーツを囲んで、再び食卓につく。少し離れた場所では、テレビでバラエティ番組が賑やかに流れていた。
旭が、今度はゆっくりと手話をしながら奏雨に尋ねる。
「文化祭終わったってことは、あと少しで高校生は夏休み?」
奏雨は、ゆっくりと頷く。
律が、思い出したように口を開いた。
「そういえば、夏休みに大学見学あるらしいぞ。」
奏雨は首をかしげた。大学見学?
旭は、懐かしむように語る。
「あー、それ俺もやったわ。夏休みだっつーのに、全員で一日だけ集まってどっかの大学行くやつ。それで模擬講義受けたり、大学内見学したり……オープンキャンパスよりしっかりした感じだったな。」
律は、それを聞いてうんざりしたように顔をしかめる。
「えー、まじか。それダルそう。」
「お前ら大学進学するんだろ?」
旭は二人に視線を向けた。
律は、大きなため息まじりに答える。
「まあ、するけど。」
しかし、奏雨はピンと来ていない様子だった。
自分が大学まで進学し、そしていずれ働く――頭では分かっていたことだが、具体的な将来については全く考えていなかった。
旭は、そんな奏雨の様子を見て、兄らしく助言をした。
「大学行くにしろ、いかないにしろ、とりあえずちゃんと見てこいよ。」
その言葉には、未来を真剣に考えるきっかけを与えたいという、兄の優しさが込められていた。
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