高校生、スーツを買う

青のり磯辺

高校生、スーツを買う

 皆さんはドラマとかで、先輩がスーツのジャケットを取ってさっと羽織りながら、後輩に「行くぞ」とか声をかけるシチュエーションを見たことがあるだろうか。

 私はこのシチュエーションをかっこいいと思う。好きだ。

 腕を通すためにちょっと伸ばすあの瞬間の背中の布の膨らみなどを想像すると胸が高鳴る。あの空間の下に入って体操座りしながら、ぼんやりと頭上に広がる裏地で天体観測とかしたら楽しい気がする。


 さておきその日、私はスーツが入り用になって、買いに行った。付き添いは母だ。

 店内に入ってすぐ店員さんに声を掛けられ、「おお、仕事人のごとき早さだ(実際彼女は仕事人である)」と思いながら流れ行く川の如き応答を聞き、気付けば当の私は何も分からないまま母と店員さんがおすすめした型から好きな色を選んで、試着することになっていた。

 何も言わずに試着室のカーテンを潜った。ジャケット、スカート、そしてシャツをお供にして。

 姿見を通して見る私とかっちりしたシャツとスカートは、自分で言うのもなんだが結構似合っていた。だいぶ挙動不審なのは否めなかったが、まあ駅ですれ違わないこともないかな、みたいな初々しさがあって、つまりは凄く“大人”の様相をして立っていた。

 中身はこんななのに、見た目はすっかり育ってしまったな。の思いが胸を突く。体に精神が置いていかれたような寂しさだ。高校の二年生になったころから慢性的にうっすら思っていたそれを、スーツというやつは水圧洗浄機でビャーッとするみたいに浮き彫りにしたのだった。

 しかしそんな将来とか現状とかの漠然とした不安に対し、同じくらいこうも思った。「おお、かっこよくね?」。まだ“大人”になるには早い気しかしないが、それはそれとして“大人っぽい”。心の中のことを置いておけば、なんだか“大人”に見えるというのは、むず痒く私を高揚させた。


 ここで話が最初に戻る。私は、あとはこのジャケットさえ羽織れば、胸を張ってこの試着室のカーテンも開けよう、とうきうきしていた。対面した艶のあるその生地を前に手付きは少し乱暴だったかもしれない。ともかくハンガーから、丁寧にジャケットを剥がして、腕を通そうとしたのだ。


 通らなかった。

 ……通らなかった。


 鏡を前にジャケットに片腕を突っ込み、それからせっせとその手で襟をどうにか掴んで、もう片腕を「よいしょぉ」ともたもたやる私は、……まあまあ無様だった。


 大人の皆さん、きっとそうだと言ってください。

 初めて着たスーツのジャケットに対して、「えっ硬」って思いましたよね?

「あっ、意外と伸びない」と知って、せっせと襟元を掴んで、一本ずつ腕を通しましたよね?


 イメージ通りなら右腕しゃっ、左腕しゃっ、といけるはずだったのに、ぱつんぱつんしていた。布にゆとりがないと言うか。実際には「よいしょ……」ってやる工程が必要なんだなと悟って、「やっぱ大人はすげぇな」となった。

 ドラマで見るジャケットを羽織りながら歩きだすやつは、相当な経験値がないとできない芸当なのだと分かった。じゃあその撮影現場で初めてスーツを着ることになった俳優さんがこのシーンを演じるとき、「あ、意外と硬いなこれ」ってな感じに、うまく羽織れなくてもたもたやり出す可能性もあるんじゃないか? そんな視点も得て、早速良い体験をしたとカーテンを開けた。

 特に母を見て、「どうだ中身はこんなだが見てくれは相当“できそう”だろう?」と胸を張る。

「おお、大人っぽくなったね」と母は言った。

 そうだろう、とそのまま店員さんを見た。店員さんは頷く。

 そして「雰囲気が変わりましたね」とか色々と私を褒めたあと、しかし彼女は少し気まずそうに指摘した。

「スカートの前と後ろが逆、ですね……」

「あっそうなんですね……」

 直しますね……と試着室に戻った。試着室の床を見た。

 なんかもう帰りたいなと思った。

 言い訳をさせてもらうと、スカートにポケットが付いてないのが悪いのであって、スーツ初心者の私は悪くない。スーツにおけるスカートの前後ろ判別法なんて教わったこともないのだから。

 ただ、布の両端を縫い合わせたのだろうまっすぐな線は体の真ん中にあるものだろうと、前か後ろかの二択で勝手に賭けに出て勝手に賭けに負けた、自損事故感も多少はあって、虚しさを覚えながらスカートを回した。シャツが捩れたせいで戻すのに手間取った。横着は良くなかったと反省している。


 それで、その日は一式を買いに行ったので、スーツとジャケットとシャツが決まれば靴だ。パンプスだ。

 金色の留め具が綺麗だったのでデザインはさっさと決めた。サイズとヒールの高さで、疲れと見栄えのどちらを取ろうか、なんて難問にかちあったがそれも乗り越え、両足を差し込んで立つ。


「足が、足が長く見える……!」


「本当だね」と母もその効果を認めていた。

 私はこれでもJKであるので、足が長くすらっと見える効果みたいなのは調べているし、私服にも出来るだけ取り込むように気を付けている。しかしパンプスとタイツというのはそれだけで綺麗にすらっと、私の足を彩って見せてくれた。

 期待以上であった。軽々と飛び越えていった。なんなら自分の足なのに眩しいと思った。

「(足の)甲が見えるとその分、映えますよね」

 店員さんは微笑みを浮かべて、「どうぞ、歩いてみてください」と試着室前の空間を指した。

 私はランウェイを歩くモデルの気分でうきうきと踏み出す。パンプスはヒールのせいか癖があって体が揺れ、制御に苦労したが、それ以上にコツコツと軽快に音を奏でるのが楽しい。フロアのピカピカのタイルを一個二個と鳴らしていく……。


「大股で歩かない! パンツ見えるよ!」


 ……。

 母と言う、生きものは……。


「スニーカーじゃないんだから」

「パンプスに歩き方がある……?!」

「あるよそりゃあ!」


 店員さんが苦笑いしていたのをよく覚えている。とにかく膝丈のタイトなスカートは大股で歩かない方が良いことを学んだ。

 記念すべき最初の歩みでご指摘をいただいたが、やはりヒールというのは素敵だ。少し視線が高くなる。たったそれだけだが私の目は世界をより新鮮に、鮮やかに映した。鏡を見れば足は長い(ように見える)。無駄にブラウスが沢山かけられた列の間を通ってみたりして、歩行距離を伸ばしながら鞄コーナーに。


「……五分もしてないのにもう足痛い。なんで世の中の女性はこんなのを履いて綺麗な顔を維持できるの?」

「慣れだね」

「慣れですね」

 ——この店のスタッフはみんな一日中これですし、なんなら階段を登るのも走るのも余裕ですよ。

 穏やかな笑みは戦士のそれであったらしい。私はその言葉を聞いたとき売り場が戦場に見えたし、彼女が兵士に見えた。銃口がこちらを向いている気さえした。


 鞄を見繕った。鞄は容量とデザインの二つで評価して、結局、一番人気という無難な選択に落ち着く。

「当店アプリやっておりまして、会員様であればお割引もございまして——」

 登録した。結構な値段が割り引かれるからだ。

 弟の進路はどうなるか分からないが、弟がスーツを買うならここの店かここの系列の世話になることになり、そのときは会員の私も連れて行かれることも決定された。母はそうして会員登録から逃れたのだ。感動した。賢いやり方だ。


「高いね〜」

「全部で六万かあ」

 帰り道、車の中でそんな話を母とした。ジャケットとスカートは、二つを一緒にハンガーに掛けられるし収められる天才が考えたに違いない収めものに包まれて、荷室に横たわった。パンプスも鞄も、その傍に積まれていた。

 ちょっと遠出しないと見られない、三つもある車線。白線がまっすぐ伸びているそこで、信号に引っかかる。

「せっかく来たし、気になる店あるからそこでお昼ご飯にしよう?」

「いいね」

 母が提案し、私はそれに頷いた。店名で検索したらおしゃれな内装とメニューが出てきてびっくりしたが、面白いもので小さいころ毛嫌いしていた「おしゃれなサラダ」は、この年頃になれば全然食べられる。怖いものなしだ。

「行けるとこ増えたよね」

「食べられるもの増えて楽しいよ」

 それはそれとしてもう幼いころの味覚が戻ってこないのだと思うと、「まだ大人になる覚悟はできていないから、もうちょっと待ってくれ」みたいな気分になってくる。最近ピーマンが美味しいのだ。でもシナモンはまだ苦手で。

 自分が変わっていく、その自覚を持っている。しかし変わっていない部分もある、それには追いついてない感じがして焦る。もう、寂しくて不安でたまらない。体がぐちゃぐちゃになるみたいな思いがする。

「体型変わらんように維持してよ。いざ使うときに入らんとかなったら、またここに来るでね。そして六万が飛んでいく……」

「……、努力します……」

 かなりの学びを得た。ジャケットを羽織るのが意外と難しいこととか、スカートの前後ろの件とか、パンプスの歩き方とか、一式セットが高いこととか、体型が変わると買い直しなこととか。

 面白い体験だった。いつかこの記憶を忘れてしまう前に、小説のネタにしようと思った。

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