第2話 海色の瞳に星が降る

 朝になってもナンナ神殿は明るい夜の中にある。

 一日中深い夜に包まれる神殿だが、月が明るくて生活に支障はないと、昔ここを訪れた旅人が言った。


 幼い頃から巫女として暮らしてきたおかげで、起きる時間は身体に染みついている。カルナは顔を洗い、長い黒髪を櫛で梳き、着替え、耳飾り、首飾り、腕輪を身につけ、被衣を被る。


 ナンナ神殿では、月や星の運行を確認しながら水時計を操作することで時間の経過を推し量る。神殿内の人間はみんな時間に沿って神殿の雑務を行うのだ。

 朝の参拝と食事を終えると、神殿を掃除したり、畑の手入れをしたり、文書や財物の整理をしたりと、神官も巫女もそれぞれの役割をこなしていく。


 昨夜の予言の内容が頭に重たく残って、カルナはあまり眠れなかった。

 緩慢な動作で広い中庭を箒で掃いていると、一緒に掃除をしていた巫女のマライアがカルナに話しかけてきた。


「カルナ、掃除の後は昨日いらしたお客様のお相手をするようにって神官長様がおっしゃっていたわ」

 マライアは黒髪を三つ編みにし、薄青い涼しげな衣服に身を包んだ、褐色肌の明るい巫女だ。


「そうなの? わかったわ」

 巫女の年齢にばらつきはあるが、一緒に暮らす姉妹同然の存在だ。

 特にマライアは昔からの親友だった。

 けれど子供の頃、彼女が危難に遭うのを止められなかったことがカルナの中では負い目になっていて、親愛の情を彼女に真っ直ぐ注ぐことに躊躇いがあった。


 マライアは意地悪そうな笑みを浮かべてカルナの耳に顔を寄せた。

「今朝見たけど、結構格好いいお客様だったね。もういい感じの関係になっちゃったりしているの?」

「ちょ、ちょっと、そういうのじゃないんだから!」


 思わず頬に熱が上るが、マライアは「そういうことにしておいてあげる」と笑いながら箒を片づけに行った。カルナの「違うってば!」という抗議に彼女は手をひらひら振るだけだった。

「カルナ」

「きゃっ!」

 話の渦中の人の声が背後からかかって思わず大きな声を上げてしまった。


 振り返ると、申し訳なさそうな顔のレーゲンが立っていた。

「ごめん、驚かせたね」

「いえ、大声を出してごめんなさい」

 気にしないでと言って笑うレーゲンに、カルナは早くも親しみを感じ始めている。


「レーゲン様、今日は一日神殿に滞在なさるの?」

「うん、しばらくゆっくりしようと思っているんだ」

「それなら神殿を案内するわ」

 よろしくねと言うレーゲンにカルナは微笑み返す。


 カルナは朝からそれぞれの務めをこなす神官や巫女たちの間を通り、神殿内を順番に回った。

 神殿の構造は大まかに入口の塔門、中庭、奥の至聖所に分かれている。中庭の大きな柱は奥へ向かって並び、月や植物の図像が彫られ、彩色されている。


 中庭の突き当りが参拝者の祈りの場で、その奥が至聖所だ。厨子に神像が安置されているはずだが、そこは高位の神官しか入れない。

 神官長が日々供物を捧げ、清めの儀式を行っている。

 カルナたち一般の神官や参拝者が神像を拝めるのは祭祀の際に外に運び出されるときだけだ。


 神殿の周囲には神官や巫女の住居や客室があり、畑や駱駝や家畜の飼育小屋なども広がっている。

 カルナのお気に入りは小さな泉を囲う緑地で、月光を受けて白い花が淡く光るのだ。ひと通りの案内を終え、月が浮かぶ泉の前にカルナとレーゲンは並んだ。


「とても美しい場所だね」

「私が一番好きな場所なの」

 レーゲンはカルナと目線を合わせるように少し屈む。

「そうだ、カルナ。他の巫女に話していたように普通にして。様づけはなし。お願い」


 レーゲンの青い瞳がカルナを見つめる。逸れない光のような真っ直ぐな視線が、カルナの胸を甘く打つ。

「え、えっと、わかったわ、レーゲン」

 呼び方を変えた途端、レーゲンとの距離が一気に縮まった気がした。レーゲンは満足げに頷いた。



 それからレーゲンは何日も神殿に滞在した。


 彼は周囲の神官たちにも持ち前の人懐こさと明るさで打ち解け、神殿内の雑事を手伝うようになった。

 カルナも彼と一緒に駱駝の世話をして、畑仕事をした。終わると一緒に食事をし、例の泉の傍で夜が更けるまで二人で話をするようになった。


 レーゲンは今までの旅の話をしてくれた。

 風神を祀る山の怪物退治や、氷が融けない北の大地の冒険譚などをカルナはハラハラしながら聞いた。

 カルナは初めて駱駝と仲良くなれたことや巫女の踊りが難しいことなどを話した。


 ナツメヤシの木の陰で二人並んで話しているとすぐに夜が更けてしまう。時が経つのが早いと思ったことはないのに、こんなにも日々が目まぐるしい。

 レーゲンと出会って数日なのに、一緒に過ごすたびに彼に惹かれているのをカルナは感じていた。


「今日もお手伝いありがとう。レーゲンがいると力仕事が早く終わって助かるって、みんな言っていたわ」

「こっちは寝泊まりさせてもらっている身だからね。助けになれているなら嬉しいよ」

 レーゲンは気のいい人だ。レーゲンと話していると今まで感じたことがないほど心があたたかくなる。


「カルナ、大丈夫? ちょっと顔色が悪いね」

 出会って間もないのに、こんなにも彼は優しい。

 夜空には変わらずあの不吉な予言がずっと輝いていて、カルナは不安であまり眠れない日々を送っていた。


「大丈夫よ。大したことはないから」

 カルナは笑顔を作った。レーゲンには内心の不安も、占星術のことにも気づかれたくない。レーゲンは自分が怪我でもしたような苦しげな顔つきでカルナを心配そうに見つめ返した。



 レーゲンが来て七日目。

 朝からの畑の世話を終え、カルナとレーゲンが神殿へ戻る途中で、中庭から突如悲鳴が上がった。

 二人で中庭に駆け込んだときには、人だかりができていた。嫌な予感が悪寒とともにカルナの全身に巡る。人を掻き分けてカルナはその輪の中心へ踊り出た。


 そこには、ユスフが血塗れになって倒れていた。


 呻き声を発するユスフに、別の神官が頭の傷に布を押し当てて応急手当をしているところだった。


 ――月を祀る聖域、神を崇めし者は血の禍に伏す。


 あの予言を瞬時に思い出し、地面に飛んだ暗い血の色を見た瞬間、カルナの頭からさーっと血の気が引き、そのまま視界がぐるんと回った。

「カルナ!」

 レーゲンの焦った声が聞こえた気がしたが、身体にまったく力が入らなかった。


 目覚めたとき、カルナは自室のベッドで横になっていた。すぐにさっきの出来事を思い出してカルナは上体を起こす。ベッドの傍らにはレーゲンが座っていた。彼が口を開くより先に、カルナは彼に尋ねていた。

「レーゲン、神官長様は?」

「手当てを終えて自室で休まれているよ」


 カルナはベッドを飛び出し、ユスフの部屋へ急いだ。名前を呼びながらレーゲンが追いかけてくるが、今は一刻も早くユスフの無事を確かめたかった。

 神官長の部屋へ駆け込むと、頭に包帯を巻いたユスフがベッドで横になっていた。カルナの姿を認めると、彼は優しい目でカルナを見返した。


「お父様!」

 カルナはユスフの胸元に飛び込んだ。

「カルナ、私は大丈夫だ。ちょっと段差の傍で足を滑らせただけだから。血がいっぱい出て驚かせてしまったね。命に別状はないって医者に言われたよ」


 ユスフの手のひらがカルナの頭を優しく撫でた。

 その声と手つきで、彼が生きてここにいるのだと実感できた。安堵と無力感と罪悪感で、堪えきれずに涙が溢れた。

「ごめんなさい! 私が、星を視たせいで……!」


「ああ、また占星術で未来が視えたんだね。この運命は星が定めたのだ。お前は何も悪くないよ」

 カルナはユスフの胸に顔を埋めて首を横に振る。

 カルナのせいだ。あんな予言を視たせいだ。


「カルナ」

 追いかけてきてくれたレーゲンが後ろにいて、カルナの両肩を後ろからそっと抱いてくれた。

「レーゲン殿、カルナを頼みます」

 レーゲンは頷き、「休ませてあげよう」と言ってカルナをユスフの部屋から連れ出してくれた。


 涙を拭い、嗚咽を落ち着かせているうちに毎晩レーゲンと話をしていた泉まで来ていた。ナツメヤシの木の傍にある白い石のベンチに座らせられると、レーゲンが隣に座った。

「……取り乱して、ごめんなさい」

「親しい人が大怪我をしたら、ショックを受けるのは当然だよ」


 今日も薄明るい紺碧の夜空に星々がきらめき、人の運命を照らし出している。


「……私、本当は捨て子なの。乳飲み子のとき神殿に捨てられていたのを神官長様が拾って、自分の子供として育ててくれたんだって」

 ユスフは本当の娘にそうするように、カルナを愛情深く育ててくれた。だから捨て子であったことを嘆いたことは一度もなかった。


「大事に育てられたんだね。君を見ていればわかる」

「神殿の人たちは家族同然に大切な存在なの」

 ユスフは大切な父だし、マライアをはじめ巫女たちは姉妹だ。神殿の暮らしに不満はないが、ただひとつ、星の光だけがカルナに暗い影を落としている。


「カルナ、君は占星術師なの?」

 レーゲンの問いにぎょっとする。


「ごめんね。さっきの会話が聞こえてしまった」

 申し訳なさそうに眉を下げるレーゲンに、カルナは目を背ける。

この力のことをどう説明すればいいかわからない。


 占星術を使える者は希少だという。

 カルナの秘密は父にしか打ち明けていない。こんな異質な力は、父にしか受け入れてもらえないと思っている。


「僕に宿る星の魔力では、星空を見上げるだけでその運命の詳細を言葉に起こすことはできない。君の力は並の魔法使いにすらできない、すごいことだ」

 カルナは思わずレーゲンを振り返る。


 自分ひとりしかいない世界に人が現れたような驚きと感動が、カルナの心の奥底から湧き上がる。

 星の運命を視る人はカルナの他にいないと思っていた。でも、その人は奇跡のようにカルナの前にいる。


 カルナの瞳から涙が零れると、もう止まらなくて次々と涙が頬を伝った。

 カルナはレーゲンの胸元に飛び込んだ。彼はそんなカルナを優しく抱きしめた。

「……君も視てきたんだね。何があっても変えられない、星が示す残酷な運命を」

 大きな手と優しい声に、嗚咽が止まらなくなる。


「私……、私だけが星の魔力なんて持って生まれて、ずっとひとりで、不安で……!」

 ずっと心に抱えていた気持ちが一気に膨れ上がって、うまく言葉にならない。堪えていたものが決壊したように涙が溢れて止まらなかった。

 カルナが落ち着くまでレーゲンは待ってくれた。

 身を離し、カルナは前を向いて座り直した。


「占星術のこと、ユスフは知っているんだね」

「お父様しか知らないの。占星術は稀有な秘術。よくないことに利用しようとする人が出るからって」

「聡明な父上だ。君は善良な人に、大事にされている」

 大切な父のことを褒められて嬉しくなり、カルナは泣き腫らした顔で微笑んだ。


「幼い頃からずっと、星の運命が視えていたの」

 声が震えるが、言葉を続けることはできそうだった。

「幼い頃、親友のマライアが水に落ちて溺れる運命が視えたの。理由をつけて何度も水から遠ざけたけれど、彼女は川に落ちてもう少しで死ぬところだった。占星術で視えた運命は変えられないものなんだって、そのときにわかってしまったわ」


 それからカルナにとって占星術は、知りたくない未来を見せる息苦しい異物になった。

 神殿の人々と家族のように過ごしても、一緒に星の運命を分かち合える人はいない。むしろカルナが未来を視たせいで災難に見舞われているようにすら感じられる。知っていて助けられないのなら、カルナが災難に突き落としているも同然ではないのか。


 カルナはいつも星の運命を視て、運命が変わらないことを思い知りながらひとり無力感に苛まれてきた。

 自分が心を開ける人には一生出会えないし、笑いかけてくれる優しい人たちはカルナのせいで厄災に見舞われる。神殿内で自分だけが異物だと感じるカルナの疎外感は、心の中で肥大化し続けた。


「どうしてこんな力があるんだろうって、レーゲンは思ったことない? 運命を知ったところで、一度空に表れた運命は覆らない。誰も助けられない、無力な自分のことが段々嫌になるの。星の運命なんて、最初から視えなければよかったのに……!」

 レーゲンはカルナの両手を、自分の両手で包み込むように優しく握った。彼の手のひらがあたたかい。


「でも、僕と出会えたじゃないか」

 カルナはレーゲンを見上げた。


「君の言うことは痛いほどよくわかる。この世界で起こることはすべて星に定められている。大きな歴史の流れに影響が出ない小さな運命なら変わることもあるけれど、人の生死や怪我、国の衰亡なんかに関わるような出来事だけは、決して変わらない。だから僕と君が出会ったのだって運命のひとつなんだ。君と出会う運命があることを、僕はいつだって嬉しく思う」


 レーゲンはカルナから手を離すと星空を見上げた。

「どう足掻いたって運命は覆らないかもしれない。でも、変えようとすることはできる。だから僕は運命を示す星空から目を逸らさない。もし星の運命が残酷でも、――それでも僕は、星の光を見ていたい」


 星を見たレーゲンの海色の瞳の中で、星の光がきらめいた。

 この人は、カルナと違う思いで星空を見上げて生きているのだ。だから星の魔力を持っていても、こんなに力強い眼差しで世界を見ることができる。


 カルナは星の運命は変えられないと諦めきっていた。

 運命に人の意志が介入する余地はないのだと。


 だが、この人の強い心の在り方に触れていると、自分でもそういう生き方ができるのではないかと勇気が湧いてくる気がする。

 カルナは涙で塗れた頬を腕でもう一度拭った。

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