第3話 甘い香りの言い訳
私の髪に触れるか触れないかの距離にある、セドリックの整った顔。
彼のサファイアの瞳が、不思議そうに私を見つめている。
「殿下……。失礼ですが、何か甘い香りがしませんか?」
その言葉が、心臓に氷の矢みたいに突き刺さった。
(やばい、やばい、やばい……!!)
頭の中で、警報が鳴り響く。
この甘い香りは、私が王女としてお風呂上がりに使っている、薔薇の香油のものだ。男であるアルフレッド兄様が、こんな女性的な香りをさせているなんて、不自然すぎる!
しかも、緩んだ晒しのせいで、胸の柔らかな感触が、彼の腕を通して伝わってしまっているかもしれない。
もう、絶体絶命!
ぐるぐる、と頭を必死に回転させる。何か、何か言い訳を……!
嘘をつくなら、完璧な嘘を。彼が信じてくれて、なおかつ、今のこの状況を切り抜けられる、最高の言い訳を……!
(……そうだ、これしかない!)
脳裏に浮かんだのは、病室で眠る、愛しい兄の姿。そして、本来ここにいるはずのない、私自身の姿。
私は、すうっと息を吸い込むと、わざと瞳を潤ませて、伏し目がちに呟いた。
「……気づいたか、セドリック」
「殿下……?」
「これは……故郷に咲く、ある花の香りだ。古くから、病を癒し、心を落ち着ける効果があると言われている」
私は、セドリックから視線を外し、遠くを見るような目をした。
「……妹が、私の無事を祈って、手ずから香り袋を作って持たせてくれたんだ」
言いながら、胸の奥がきゅっと痛む。
もちろん、真っ赤な嘘。でも、もし兄様と私の立場が逆だったら、私はきっと、本当にそうしていただろうから。
私の目から、一筋の涙が、ぽろりと頬を伝った。これは演技なんかじゃない、本物の涙。
「あいつはいつも、自分のことより私の心配ばかりしてくれる。本当は、私がそばにいて、支えてやりたいんだが……」
私の迫真の(というか、半ば本気の)演技に、セドリックは息を呑んだのがわかった。
彼の手から、ふっと力が抜ける。
その隙を逃さず、私はさりげなーく彼から身を離し、何食わぬ顔で緩んだ晒の上から制服をぐっと引っ張って直した。ふぅ、危ない危ない……!
「……そうでしたか」
セドリックの声は、いつもの彼らしくなく、少しだけ揺れていた。
月明かりに照らされた彼の横顔は、なんだかすごく、申し訳なさそうな顔をしている。
「大変、失礼をいたしました。殿下の、妹君を想うお気持ちも知らず……」
「いや、いいんだ。君が謝ることじゃない」
ぶんぶんと首を振る私に、彼はどこか優しい、慈しむような眼差しを向けた。
(うっ……そ、そんな顔、反則だよ……)
いつも厳しいくらいに真面目な彼が見せる、不意打ちの優しさ。そのギャップに、心臓がきゅっと甘く締め付けられる。
罪悪感でズキズキする胸と、彼へのときめきでドキドキする心臓が、私の中でお祭り騒ぎを起こしていた。
「……続けよう、セドリック。強くなりたいんだ、私は。妹のためにも」
「……はい、殿下」
気まずい空気を振り払うように、私は木剣を構え直した。
セドリックも、こくりと頷いて、レッスンを再開してくれる。
でも、さっきまでの空気とは、明らかに何かが違っていた。
「では、次は防御の型を。相手の剣の軌道をよく見て……」
セドリックが説明しながら、私に打ち込んでくる。
でも、その剣先は、どこか遠慮がちだった。
私のことを見て、はっと視線を逸らしたり。
「殿下、集中してください」って叱る声も、心なしか棘がなくて、むしろ耳に心地よく響いてしまったり。
(だめだ、だめだ私! 集中しなきゃ!)
でも、意識すればするほど、さっきの密着事件がフラッシュバックして、顔に熱が集まってくる。
月明かりの下、二人きりの秘密のレッスン。
それは、私が完璧な王子様になるための試練のはずなのに、いつの間にか、甘くて、少しだけ切ない、特別な時間へと変わっていっていた。
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