第十四章 尼将軍の理(ことわり)

【🪭1. 悪夢の舞台と理の将軍】

 珠緒のその美しい唇が三日月のように吊り上がった瞬間、静たちの足元がぐらりと揺れた。

 体育館の床が消え、代わりに現れたのは磨き上げられた檜の巨大な「能舞台」。

 そしてその周りを取り囲むのは観客席ではない。

 千年の歴史の闇そのものだ。

 舞台の中央には珠緒が静かに立っている。

 だがその姿はもはや人間の教師のものではなかった。

 その背後からまるで漆黒の炎のように揺らめく九本の巨大な黒い尾が現れていた。

 そしてその瞳。

 人間のものであるはずの丸い瞳孔は完全に消え、そこにはただ嘲笑うかのように細く研ぎ澄まされた上弦の月のような縦の切れ込みだけが妖しく光っている。


「…さあ、最初の演者と参りましょうか。この国の『理』を創り上げ、そして最も男を憎んだ、あの女から」


 珠緒がそう囁くと、九本の尾のうち一本がすうっと伸び、その先端から黒い鎧を纏った「尼将軍・北条政子」の怨霊がその姿を現した。

 かつて伊豆の片田舎で、一つの夢を買い取ったあの少女の、憐れな成れの果てだ。

 政子の攻撃はこれまでのどの怨念とも異質だった。

 彼女は妖術を使わない。その手にしたしゃくを一度振るうと、舞台の床から無数の「法」という文字が鎖となって現れ、九郎の動きを封じようとする。


《…武力など所詮は獣の力。この国を統べるのは揺るぎない秩序と法度のみ…!》


 その声は冷徹で、そして絶対的な為政者のそれだった。

 九郎はその「膝丸」で法の鎖を次々と斬り払っていく。

 だが斬っても斬っても鎖は次々と再生し、徐々にその身を蝕んでいく。


『…くっ…! きりがない…!』


 九郎の動きが、目に見えて鈍り始めた。


【🪭2. 二つの戦場】

「九郎殿、退いて!」


 朱鷺が叫ぶ。彼女は静御前ゆかりの杖を高く掲げ、そして力強く大地に突き立てた。


「ギケイ流、結界術! …『常盤のときわのもり』!」


 杖から放たれた生命の光が舞台の上に巨大な古木の幻影を作り出す。その枝は天を覆い、葉は青々と茂り、その根は大地に深く張り巡らされる。

 政子の生み出す無機質な「法」の鎖が、その生命力に溢れた古木の枝葉に触れた瞬間、ジュッと音を立ててその力を失っていった。


《…自然の理で私の人の理を打ち破るか、ギケイの末裔…。面白い…!》


 政子は初めてその表情に僅かな笑みを浮かべた。

 二人の女の「理」と「理」が激しく火花を散らす。

 その隙に、朱鷺は静へと鋭く叫んだ。


「行きなさい、静! この女の魂は私と九郎殿で抑える! そなたは本体を叩け!」


『…承知! 静、行け! ここは我らに任せよ!』


 九郎もまた、朱鷺の意図を瞬時に理解し、静を先に行かせるべく政子の前へと立ちはだかった。

 能舞台は二つに分かたれた。

 手前では朱鷺と九郎が北条政子の怨霊と対峙し、静はただ一人、本体である珠緒を討つべく、能舞台の奥を目指す。

 二つの戦いが同時に始まったのだ。


【🪭3. 高御座への飛翔】

 静の覚悟に応え、彼女の胸元の巾着から再び神聖な白狐がその姿を現した。

 白狐は静を背に乗せると、低く咆哮し、能舞台の奥、一段と高くなった場所に設えられた高御座たかみくらへと狙いを定める。

 そこには、珠緒がまるで全てを見通すかのように、優雅に座して静を待っていた。


「九郎!」


 静の叫びが合図だった。

 白狐は燃え盛る屋根瓦を蹴るように、能舞台の床を力強く蹴った。

 眼下では朱鷺の作り出した『常盤の杜』と政子の生み出す『法の鎖』が激しくせめぎ合い、九郎の『膝丸』がその合間を縫って政子に斬りかかる光景が遠ざかっていく。

 静はただ、前だけを見据える。高御座に座す、千年の妖婦、珠緒(玉藻前)だけを。

 白狐の飛翔は、一条の白い光となって能舞台を縦断する。

 やがて、白狐は音もなく高御座の前へと舞い降りた。

 静は白狐の背から降り立ち、扇子を構える。

 珠緒は動かない。

 ただその上弦の月のような瞳で、静を楽しげに、そして品定めするかのように見つめているだけだった。

 静寂が支配する。

 これから始まる最後の問答と、最後の戦いを前に、二人の狐が静かに対峙していた。

(第十四章 完)

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