第十三章 黒狐の学び舎

【🪭1. 偽りの日常】

 藤沢での壮絶な戦いから数日が過ぎた。

 栗原の町は一見すると何も変わらない穏やかな日常を取り戻しているように見えた。

 だが静だけには分かっていた。

 この静けさは嵐の前のそれとは違う。

 もっと巧妙に仕組まれた「偽りの平穏」であるということを。

 岩ヶ崎高校に戻った静を待っていたのは、以前とは少し違うクラスの空気だった。

 生徒たちの表情からあのアプリに怯えていた頃の不安の色は消えている。

 だが代わりにそこにはどこか均質的で、そして熱に浮かされたような奇妙な「高揚感」が漂っていた。


 その中心にいるのは言うまでもなく新任の古典教師、妲珠緒たつたまおだった。

 彼女の授業はもはや神がかり的ですらあった。

 生徒たちはまるで彼女の言葉の魔法にかかったかのように、その一言一句に聞き入りそして彼女に心酔していた。

 休み時間には常に彼女の周りに人だかりができ、その輪の中からは楽しげな笑い声が絶えることがない。

 その光景は一見理想的な教師と生徒の関係に見える。

 だが静にはその笑い声の奥底に潜む不気味な「不協和音」が聞こえていた。

 誰もが同じ顔で笑い同じ声で彼女を褒め称える。

 まるで個性を失った操り人形の群れのようだった。

 一番変わってしまったのは大江花梨だった。

 かつて静と歴史の話で目を輝かせていた、あの聡明な少女の面影はもはやどこにもない。


「…聞いた静? 珠緒先生、昔フランスに住んでたことがあるんだって。…ジャンヌ・ダルクの火刑の跡も見たことあるって言ってた。…すごいよね先生何でも知ってるんだ…」


 花梨はうっとりとした表情で珠緒のことを語る。

 だがその瞳の奥にはかつての知的な輝きではなく、ただ盲目的な「信仰」の光だけが宿っていた。

 静が珠緒に対し僅かでも疑問を口にしようものなら、彼女は途端に氷のような表情になり静を拒絶した。


「…何言ってるの? 珠緒先生がそんなことするはずないじゃない。…静、あなたちょっとおかしいよ」


 かつて唯一の「光」であった友人との間に、生まれた深くそして冷たい溝。

 静は学校という閉鎖された空間の中で、再び静かな孤独へと追いやられていった。


【🪭2. 朱鷺の焦燥】

 その異変は学校だけに留まらなかった。

 栗原の町全体が少しずつしかし確実に珠緒という存在に「汚染」され始めていた。


 彼女が立ち寄ったという喫茶店は連日満員となり、彼女が褒めたという菓子屋の商品はすぐに売り切れる。

 町の有力者たちも次々と彼女のその人間離れした美貌と知性の虜となり、まるで古の女王に貢物をするように彼女の元へと集まってきていた。

 その全ての情報を朱鷺は自らのネットワークを駆使し静かにしかし正確に収集していた。


「…まずいですね」


 その夜書斎で朱鷺は険しい表情で呟いた。


「…あの女…珠緒と言いましたか。…彼女はただの怨霊ではない。…彼女は人の『心』そのものを操る術に長けている。それも憎しみや恐怖といった負の感情ではない。…好意、尊敬、そして信仰という最も抗いがたい『正の感情』を利用してじわじわとこの町全体を自らの領域へと変えているのです」


『…まるで国盗りだな』


 静の胸元の巾着から九郎の苦々しげな声が響いた。


「ええ。そしてその最終目的はおそらく…」


 朱鷺は一枚の古い地図を広げた。

 それは栗原の霊的なエネルギーの流れを示した特別な地図だった。


「…岩ヶ崎高校。あの場所はこの土地の龍脈のちょうど中心に位置している。…そしてそのエネルギーは全て判官森のあの古い祠へと流れ込んでいる」


「あの女は、この町全体の信仰心を学校というレンズを通じて集束させそして判官森の祠を『門(ゲート)』として何かをこの世に呼び出そうとしている…」


『…ワレの首か…』


 九郎の声に緊張が走る。


「…それもあるでしょう。ですがおそらくそれだけではない。…彼女の狙いはもっと大きい。…九郎殿の魂(剣)と静の血脈(勾玉)そして彼女自身が持つという『鏡』。…その三つを揃えそしてこの栗原の地で何かとてつもない儀式を行おうとしている…」


 その儀式の正体を朱鷺はまだ掴めてはいなかった。

 だがそのおぞましい目的だけは確信できた。

 それはこの国そのものの理を根底から覆しかねない何かだと。


【🪭3. 最初の接触】

 そしてついにその日は来た。

 放課後の廊下。

 静が一人で教室に戻ろうとした時だった。

 角を曲がった先で珠緒と二人きりになった。


「あら、藤沢さん。こんなところで会うなんて奇遇ね」


 珠緒はいつものように優雅に微笑んだ。


 だが静にはその微笑みがまるで精巧な能面のように見えた。


「…先生…」


「あなたのこと、花梨さんからよく聞いているわ。とても熱心な歴史好きだそうね」


 珠緒は一歩静に近づいた。

 彼女からふわりと香る甘い白檀の香りが、静の思考を麻痺させようとする。


「…藤沢さん。貴方の舞、素晴らしいそうじゃない。…いつか私にも見せてくださらないかしら。ギケイ流の、その、古の舞を」


 その言葉。

 その瞳。

 静は確信した。

 この女は全てを知っている。

 静はゴクリと喉を鳴らし後ずさろうとした。

 だが身体が動かない。

 まるで蛇に睨まれた蛙のように。

 珠緒はそんな静の様子を楽しげに見つめると、その美しい唇を静の耳元に寄せ、そして、こう囁いたのだ。


「…大丈夫よ。怖がらなくていいの。…だって、貴方は、私の、大切な、大切な、『最後の、器』なのだから…」


 その言葉と共に珠緒は静の横を通り過ぎていった。

 だが静の全身にはその言葉の呪いが、おぞましい楔のように深く深く打ち込まれていた。


【🪭4. 学園祭と呪詛の祭壇】

 そして運命の時は来た。

 秋の文化祭。

 その最後の夜。

 後夜祭のキャンプファイヤーが燃え盛る、その瞬間こそが珠緒が定めた「儀式」の始まりだった。

 生徒たちの興奮と熱気が最高潮に達するその時。

 彼らが無意識のうちに珠緒へと捧げた膨大な感情エネルギーを利用し彼女は「門」を開こうとしているのだ。


「…行かねばなりません」


 朱鷺は決然と言った。


「今宵、我々はこの全ての因縁に決着をつける」


 静は頷いた。

 その瞳にはもはや一片の迷いもない。

 三人は再びギケイ流の「戦装束」へとその身を包んだ。

 そして向かう。最後の戦場、岩ヶ崎高校へと。

 学園祭の喧騒が嘘のように静まり返った夜の校舎。

 だがその静寂は不気味な霊的なエネルギーで満ち満ちていた。

 校庭の中央では巨大なキャンプファイヤーがまるで意思を持ったかのように不気味な黒い炎を上げて燃え盛っている。

 そしてその炎の向こう側。

 体育館の入り口に一人の女が静かに立っていた。

 妲珠緒。

 彼女はいつもと同じ優雅な微笑みを浮かべていた。


「…お待ちしておりましたわ、ギケイの舞手。…そして源氏の亡霊」


 その声と同時に静たちの周りの風景がぐにゃりと歪み始めた。

 学校の校舎が溶けそして再構築されていく。

 ここはもはや岩ヶ崎高校ではない。

 珠緒の強大な呪力が作り出した「心象風景」。

 彼女の魂の内側そのものだ。


「…さあ、始めましょうか。千年の呪いの、最後の、一幕を」


 珠緒のその美しい唇が三日月のように吊り上がった。

(第十三章 完)

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