第六章 蠢動(しゅんどう)する影

【🪭1. 歪んだ神託、選ばれた器】

 夏の陽射しは日増しにその勢いを強め、アスファルトを白く灼いていた。

 だが、岩ヶ崎高校の旧校舎は、その熱気から取り残されたかのように、ひんやりと澱んだ空気に満ちていた。

 木の床、壁、そしてそこに置かれた古い備品の一つ一つが、過ぎ去った年月の記憶と多くの子供たちの感情を吸い込み、独特の重苦しい気配を放っている。

 河田映身を中心とする数名の生徒たちにとって、その澱んだ空気こそが神聖な儀式にふさわしい舞台だった。

 彼らは放課後になると決まって、旧校舎の最も奥まった場所にある美術準備室に集まるのが常となっていた。

 そこが、最も「繋がりやすい」場所だと、アプリが告げたからだ。

 彼らにとって映身は特別な存在だった。

 彼女がスマートフォンに指を置く時、アプリを通じて伝えられる「神託」は他の誰が試すよりも明確で、そして具体的だった。

 映身自身もそのことに戸惑いながらも、どこか誇らしげな、そして陶酔にも似た表情を浮かべるようになっていた。

 自分は選ばれたのだ、と。

 この町を、そして自分たちを、古き悪しきものから守るための「器」として。

 彼女の、あの、忌まわしい「裏切り者の血」の宿命を、浄化するための、唯一の、道なのだと。

 その日もまた薄暗い準備室の中で、古びた石膏像に見守られながら儀式は行われていた。

 映身のスマートフォンの画面には例の鳥居と文字盤が浮かび上がっている。

 彼女の細い指が画面に触れると、すぐに仮想の硬貨が滑らかに動き出した。


【…時…ハ…満チタ…】


【…森…ノ…祠…今宵…チカラ…ヲ…注グ…ベシ…】


 硬貨が示す言葉を、周りを囲む生徒たちが息を殺して見守る。


「力…ですか?」一人の男子生徒がかすれた声で尋ねた。


【…左様…ソノ者…ハ…我ラ…ガ…怨敵…封印ヲ破リ…出デント…シテ…ヲリ…】


【…我ラ…ノ…力…ダケ…デハ…足リヌ…】


【…汝ラ…ノ…純粋ナル…畏レ…ノ…心…ソレ…ガ…必要ナリ…】


 畏れの心。その言葉に生徒たちの顔に緊張が走る。


「僕たちが…祠に行けばいいんですか?」


【…左様…今宵…丑三ツ時…祠ノ前ニ…集エ…】


【…ソシテ…我ガ名…ヲ…唱エヨ…我ラ…ガ…汝ラ…ニ…力…ヲ…与エン…】


 映身は画面に浮かび上がる言葉を、まるで神の託宣を聞く巫女のように恍惚とした表情で読み上げていた。

 彼女の瞳にはもはや周囲の仲間たちの姿は映っていない。

 ただスマートフォンの冷たい光だけが、その虚ろな瞳の奥で妖しく揺らめいていた。

 彼らはその「神託」に何の疑いも抱かなかった。

 自分たちがこの町の平和を守るための神聖な儀式に参加するのだと固く信じ込んでいた。

 その儀式が、実は古えの怨念をこの地にさらに強く縛り付け、そして忌まわしき「敵」を永遠に葬り去るための、邪悪な呪詛の仕上げであることを知る由もなく。


【🪭2. 魂の共鳴、森への誘い】

 その夜、藤沢家の空気はいつもより重く、そして張り詰めているように静には感じられた。

 夕食の席で祖母の朱鷺はほとんど口を開かなかった。

 ただ時折窓の外の闇に鋭い視線を送り、何かを探るように耳を澄ませている。

 その横顔にはこれまでにない険しさが浮かんでいた。


「…おばあちゃん、何かあったの?」


 静が恐る恐る尋ねると朱鷺はゆっくりと静に視線を戻し静かに首を横に振った。


「いいえ。…ただ、今宵は少し、風が騒がしいようでね」


 その言葉とは裏腹に窓の外は不気味なほど静まり返っていた。

 朱鷺が聞いているのは常人には聞こえぬ「風」の音なのだろう。

 夕食を終え自室に戻った静は、机に向かって教科書を開いたものの全くその内容が頭に入ってこなかった。

 胸騒ぎがするのだ。理由のない焦燥感と、そして、どこかから自分を呼ぶ声が聞こえるような、奇妙な感覚。

 それは、日増しに強くなっていた。

 その声は、ただの幻聴ではない。

 それは、まるで、水底から、誰かが、静の名を、繰り返し、繰り返し、呼んでいるかのような、くぐもった、そして、どこまでも、悲痛な響きを、持っていた。

 そしてその感覚は枕元に置いたスマートフォンから発せられているような気がしてならなかった。

 アプリの噂を耳にしてから静は自分のスマートフォンにもどこか言い知れぬ違和感を覚えていた。触れてもいないのに画面が一瞬明るくなったりバッテリーの消耗が妙に早かったりする。

 そして今も暗い画面の奥で、何かが、まるで、鼓動のように、静かに、しかし、確実に、脈打っている、そんな気配を感じるのだ。

 静は吸い寄せられるようにスマートフォンを手に取った。

 ロック画面を解除する。

 特別な変化はない。

 だがその画面を見つめていると頭の中に直接声が響いてくるような錯覚に陥った。

 それは言葉にならない悲痛な叫びのようなものだった。

 苦痛と孤独とそして永い時間をかけて凝縮された深い怨嗟。

 同時にあの冷たい「視線」も感じる。判官森の近くで感じたあの爬虫類のような視線だ。

 その視線が今この部屋のすぐ外に、そしてスマートフォンの向こう側にも存在している。


『...汝、聞こえるか...私の声が聞こえぬか?』


 不意に静の頭の中に古風でしかし切迫した響きを持つ声が直接響いた。それは自分の内側から聞こえたのかスマートフォンの奥底から聞こえたのかもはや判別がつかなかった。

 気づいた時、静は部屋を飛び出し階段を駆け下りていた。


「静、どこへ行く!」


 階下から朱鷺の制止する声が聞こえたが静の耳には届かない。

 何かに憑かれたように静は玄関の引き戸に手をかけ夜の闇へと身を躍らせた。

 足は自然と判官森の方角へと向かっていた。

 月も星もない真の闇。湿った土の匂いと腐葉土の甘い香りが入り混じり静の感覚を麻痺させていく。

 昼間あれほど騒がしかった狐たちの気配はどこにもなく森はまるで巨大な生き物が息を殺しているかのように不気味に静まり返っていた。

 静の意識は朦朧もうろうとしていた。

 ただ自分を呼ぶ声だけが道標のように頭の中で響いている。

 森の奥深く木々が鬱蒼うっそうと生い茂り闇が一層深くなる場所。そこに古びた祠がまるでこの世の全ての闇を吸い込んだかのように黒々とした口を開けて佇んでいた。

 静はまるで夢遊病者のようにふらふらとその祠へと近づいていく。

 そのすぐ近くの別の場所で数人の高校生たちがスマートフォンの明かりだけを頼りに邪悪な儀式を始めようとしていることなど知る由もなかった。

 静は祠の前に立ちその朽ちかけた扉に震える手をゆっくりと伸ばした。


【🪭3. 邂逅の躯】

 指先が湿って冷たい木の表面に触れたその瞬間だった。

 ゴ、と地鳴りのような低い音が足元から響いた。

 祠そのものではない。

 祠が建つその地面そのものがまるで巨大な心臓のように一度大きく脈打ったのだ。

 静は咄嗟に後ずさる。

 彼女の持つスマートフォンがポケットの中で異常な熱を帯び画面が明滅を繰り返している。

 それは静自身の内なる何かがこの土地の古えの何かに共鳴している証だった。

 次の瞬間、祠の前の地面が盛り土のようにゆっくりと隆起し始めた。

 乾いた土が崩れ落ちその亀裂から黴と腐葉土、そして死臭にも似た濃密な土の匂いが噴き出す。

 ミシミシ、と硬い何かがへし折れる音。

 それはこの地に深く根を張っていた太い木の根が引き千切られる音だった。

 そして亀裂の中心から何かがゆっくりとしかし抗いがたい力でせり上がってきた。

 それは巨大な「繭」のようだった。

 おびただしい数の黒々とした木の根と天狗の羽団扇を思わせるヤツデの大きな葉が幾重にもそして有機的に絡み合い、人の形を遥かに超える巨大な卵のような塊を形成している。その表面は湿った土と粘液のようなもので覆われ時折脈打つように微かに蠢いていた。

 それはこれから何かが生まれ出でようとしている不気味で冒涜的な生命の揺り籠。

 巨大な木の繭は完全に地上にその姿を現すと静の目の前でぴたりと動きを止めた。

 森の空気が一変する。ザワザワと周囲の木々が一斉に不気味な音を立てて揺れる。

 そして闇の向こうから数羽、数十羽の鴉が漆黒の翼を広げ無言のまま舞い降りてきた。

 彼らは繭を取り囲むように近くの木の枝に次々と止まりまるで臣下が主君の誕生を待つかのように静かにその様を見守っている。

 静が目の前の現実を理解できずに立ち尽くしていると木の繭の表面に亀裂が走り始めた。

 ピシ、ピシッと乾いた音が響き渡り亀裂は蜘蛛の巣のように瞬く間に全体へと広がっていく。そして内側から淡い燐光のような光が漏れ出した。

 バキィッと耳をつんざくような破壊音と共に木の繭は二つに割れた。

 中から現れたのは、首のない一体の鎧武者だった。

 その身体はまるで鎧を苗床にして育ったかのように無数の黒い木の根に内外から侵食され絡みつかれている。

 根は血管のように鎧の隙間を走り時には筋肉のように盛り上がりそして時にはまだその奥にあるであろう肉体を固く固く縛り付けていた。

 兜からは首の代わりに黒く細い根が無数にまるで髪のように闇の中へと伸び蠢いている。

 その異様で冒涜的な姿はしかしどこか神々しいまでの威圧感を放っていた。

 八百年という長きにわたりこの栗原の土と同化し眠り続けていた古えの怨念の塊。

 怨嗟のえんさのむくろ

 怨嗟の躯が割れた繭の中から一歩踏み出した時一羽のひときわ体格の大きな鴉が音もなくその右肩に舞い降りた。

 その瞳はただの鳥のものとは思えぬ深い知性と永い時を生きたかのような昏い光を宿している。

 静はただ立ち尽くすことしかできなかった。

 するとその肩に止まった鴉がゆっくりと黒い嘴(くちばし)を開いた。


『...汝、聞こえるか...私の声が聞こえぬか?』


 それは鴉の声ではなかった。

 古風で気品がありしかし永い孤独と怨嗟によって深く嗄れた男の声。

 声は鴉の口から発せられしかしその響きは目の前に立つ首のない鎧武者の魂そのものから直接静の脳髄に叩きつけられているかのようだった。

(第六章 完)


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