第七話:共に生きる覚悟

久遠寺財閥にもたらした成功は、凛にとって、この時代で初めて得た確かな「居場所」だった。彼女の提案した革新的な事業戦略と、持ち前の行動力は、傾きかけていた財閥に再び光を灯し、屋敷の人々は皆、惜しみない感謝と尊敬の念を向けてくれた。特に、タエの優しさは、異邦人としてこの時代に漂流する凛の心を深く癒やしてくれた。タエは、凛が記憶喪失であるという設定を微塵も疑うことなく、根気強くこの時代の常識や生活の知恵を教えてくれる。

「凛様、その帯は少しばかり緩うございますよ。こう、締める前に少し手先で整えるのが…」

「まあ、今宵は冷え込みますから、湯たんぽをお部屋にお持ちしましょうね。昔ながらのものではございますが、じんわりと温まりますから…」

着物の帯の結び方、季節ごとの行事、近所の評判の店…タエとの他愛もない会話は、凛に、自分が確かにこの時代を生きているのだ、という実感を与えてくれた。タエの温かい手や、皺の刻まれた優しい笑顔を見るたび、凛は胸の奥が温かくなるのを感じた。(タエさん、本当に優しい人だな…私が現代から来たなんて知ったら、どんな顔をするんだろう…)そんな考えが頭をよぎることもあったが、その温かさに触れている間は、異世界に一人取り残された不安も和らいだ。

そして、暁人。事業の成功を共に分かち合ったことで、彼との距離は急速に縮まった。以前のような、久遠寺の跡取りとしての冷徹さや、凛を値踏みするような張り詰めた空気は消え、彼の涼やかな瞳には、凛への深い信頼と、隠しきれない温かい光が宿るようになった。彼は、多忙な合間を縫って、凛の部屋や庭先で言葉を交わすようになった。それは、もはや主と、雇われた異能力者といった関係ではなく、対等な、いや、むしろ互いを深く理解し合う友人同士のような交流へと変化していた。

「君のアイデアは、本当に驚きだった。まさか、化粧品と衣料品を結びつけるなど、誰も考えつかなかった…いや、考えようともしなかっただろう」暁人は、感嘆の息を漏らすように言った。

凛はにかんだ。「でも、女性って、メイクとお洋服、両方で『今日の自分』を決めるじゃないですか。リップの色に合わせてブラウスを選んだり、新しいスカートのためにアイシャドウの色を変えてみたり…そこを一緒に提案できたら、もっとおしゃれが楽しくなると思ったんです」現代的な語彙とテンポでそう語ると、暁人は一瞬、わずかに眉を寄せた。彼の涼やかな瞳に、「今、少しおかしな言い回しをしたな」「どこかで聞いたことのあるような、しかし、この時代にはない発想の組み立て方だ…」という探るような色が宿る。しかし、彼はすぐにその表情を隠し、凛の言葉の「内容」に意識を向けた。

「おしゃれ…か。たしかに、女性の装いは、単に身を飾るだけではない、その日の気分や、ありたい自分を表現するものなのだと、君を見ていて気づかされたよ。君は、いつも新しい視点を与えてくれる」

暁人は、そう言って、凛の目を見て微笑む。その微笑みは、以前の彼からは想像もできないほど柔らかく、凛の胸を締め付けた。久遠寺の跡取りとしての重圧、財閥を立て直すために奔走する苦悩を、彼は凛には隠さなかった。むしろ、その苦悩を分かち合うように、ぽつりぽつりと語る彼の姿は、凛にとって、かけがえのない存在になりつつあった。彼の傍にいると、この時代に一人取り残された不安が和らぎ、心が安らぐのを感じる。

(あ…また変な言い方しちゃったかも…)暁人のわずかな表情の変化に気づき、凛は内心で反省する。記憶喪失という設定があるとはいえ、あまりに不自然な言動を繰り返せば、いつか怪しまれるだろう。それでも、慣れない言葉遣いや、現代的な感覚からくる発言は、意識していても時折出てしまうのだ。まるで、自分の内側に二つの人格がいるかのように、現代の凛と大正の凛がせめぎ合っているような感覚だった。

それでも、どれほどこの時代の生活に馴染み、久遠寺の人々に支えられても、凛の心には常に、遠い令和への郷愁と、拭いきれない不安があった。夜、一人静かになると、家族の顔が鮮明に浮かぶ。仕事で遅くなる凛を心配して、温かい夕食を用意して待っていてくれた母の、少し丸くなった背中。口数は少ないけれど、いつも凛の決断を静かに応援してくれていた父の、優しそうな目元。くだらないことで笑い合った親友たちの、明るい声。そして、画面越しに繋がっていた、何十万というフォロワーたちからの、応援や共感のメッセージ。

(みんな、どうしてるかな…私が突然いなくなって、心配してるよね…きっと、SNSでも「#凛ちゃんどうした」とか「#人気ライバー失踪」とか、話題になってるんだろうな…)

スマートフォンがない。インターネットもない。自分が消えた後、元の世界で何が起こっているのか、全く知る術がない。まるで、自分だけが世界の時間から切り離されてしまったかのようだ。過去に取り残され、未来から閉め出されたような、宙ぶらりんな感覚。

なぜ、自分は雷に打たれて、この時代に来たのだろう?単なる偶然?それとも、何か意味があるのだろうか?元の世界に戻れる可能性は、本当にゼロなのだろうか?

疑問は尽きない。特に、久遠寺財閥の事業を成功させたことで、自分がこの時代の歴史に、少なからず影響を与えてしまったのではないか、という思いが、凛の心に重くのしかかっていた。現代で培った知識や経験が、この時代ではあまりにも強力な武器となりすぎたのではないか。未来の知識で過去を変えることの恐ろしさを、凛は無意識のうちに感じ取っていた。

そんなある日、タエが久遠寺家の古い書庫について話していた。「あの書庫には、久遠寺様のご先祖様からの歴史や、事業の記録がぎっしりと収められているんですよ。それはもう、埃まみれでございますが、大切なものでございます」

その言葉を聞いた時、凛の脳裏に、タイムスリップする前の、断片的な記憶が蘇った。(…資料館…?何か、古い書物を…見たような…)それは、仕事で訪れた資料館か、あるいは何かの企画で調べ物をしていた時だったかもしれない。特定の財閥の名前は覚えていない。だが、古い時代の日本の経済や産業の変遷に関する書物の一部を読んだ記憶がある。そして、その中に、ある特定の事業、確か…化粧品か何かだったと思う…それが失敗し、その影響で会社が傾いてしまった、というような記述があったような…。なぜか、その「失敗した化粧品」の名前(あるいは、それに類する、少し特徴的な響きの言葉)だけが、ぼんやりと脳裏に残っていた。

久遠寺が、あの「暁の香」という化粧品事業で危機に瀕していたことを知った時、その時の記憶が、ふと頭をよぎった。(もしかして…)まさか、あの書物で読んだ「失敗した化粧品事業」が、久遠寺のことだったのだろうか?そして、自分が、その事業を立て直してしまった?

もしそうだとしたら、自分が歴史を変えてしまったことになる。想像するだに恐ろしくて、誰にも話せない。しかし、確認せずにはいられなかった。この漠然とした不安の正体を知りたかった。

「あの…タエさん。その、書庫にあるっていう、久遠寺様の歴史が書いてある書物…少し、見せていただくことはできませんか?記憶の手がかりになるかもしれないので…」凛は、記憶喪失という設定を借りて、必死に理由を捻り出した。

タエは、少し不思議そうな顔をしたが、凛の真剣な眼差しに、快く応じてくれた。「まあ、記憶の手がかりに、でございますか。もちろん構いませんよ。埃っぽい場所ですが、お付き合いいたします」

書斎に通され、タエが持ってきてくれたのは、ずっしりと重く、古びた革の装丁が施された書物だった。紙は黄ばみ、インクの色も薄れている。長い年月の重みが、その一冊に凝縮されているかのようだ。凛は慎重にページをめくり、久遠寺財閥の事業に関する記述を探した。そして、「化粧品事業」に関する箇所を見つけた時、凛は息を呑んだ。

そこに記されていたのは、確かに「暁の香」という化粧品の開発とその失敗、そしてそれによる財閥の危機だった。資料館で見た書物と、同じような内容だ。(やっぱり…!)やはり、あの時読んだのは、久遠寺財閥の歴史の一部だったのだろうか。財閥名は覚えていなかったが、化粧品事業の失敗という強烈な印象だけが、脳裏に焼き付いていたのかもしれない。

さらにページをめくる。資料館で読んだ書物では、この後、財閥が衰退していく、という記述が続いたはずだ。久遠寺財閥は歴史の表舞台から姿を消し、取るに足らない存在になってしまった、と。しかし、目の前の書物には、全く異なる、信じられない内容が記されていた。

「…しかし、新しい発想を取り入れた広告戦略と、画期的な商品改良により、事業は奇跡的な回復を見せ…」

「…特に、ある一人の女性の助言と協力により、『暁の香』はかつてないほどの成功を収め、女性たちの絶大な支持を得て、久遠寺財閥は、帝都における確固たる地位を確立した…」

書物の内容は、凛がこの時代に来てから起こった出来事と、完全に一致していた。自分が、歴史を変えてしまった。久遠寺財閥の衰退という、資料館で読んだ史実を、彼女の行動が覆してしまったのだ。そして、その「ある一人の女性」とは、紛れもない自分を指しているのだろう。

全身から血の気が引いていく。手が震え、書物を落としそうになる。歴史を変える。それは、未来にどんな影響を与えるのだろうか。元の世界は、どうなってしまうのだろうか。自分が存在しない未来になってしまうのではないか?タイムパラドックス、バタフライエフェクト…現代のSF知識が、恐怖を煽る。

恐れが、津波のように押し寄せる。自分が何をしてしまったのか、その重大さに、今更ながら気づいた。単に過去に迷い込んだだけでなく、積極的に過去を「改変」してしまったのだ。

その時、部屋の襖が開き、暁人が入ってきた。凛のただならぬ様子に気づき、駆け寄ってくる。彼の顔には、ビジネスの緊張感ではなく、心からの心配の色が浮かんでいた。

「どうした、橘殿!顔色が優れないぞ!何か…何か悪いものでも食べたのか?」

暁人は、凛の震える手から書物を受け取った。そして、そこに記された内容に目を走らせる。彼の眉間に、ゆっくりと皺が刻まれていく。

「これは…久遠寺の歴史書物だが…どうしたのだ?ここに書かれていることで、何か思い出したのか?」彼の声には、記憶の手がかりが見つかったことへの期待と、凛の尋常ならざる様子への不安が混じっていた。

凛は、何も言えなかった。喉が張り付いたように声が出ない。ただ、震える唇で、書物に記された文字を指差す。暁人は、そこに書かれた内容、特に後半の、事業の成功と「ある一人の女性」に関する記述を読んだ。そして、凛の顔を見た。彼の瞳に、驚きと、そして何かを察したような色が浮かぶ。聡明な彼は、凛がこの書物を見て、何に気づいたのかを瞬時に理解したようだった。

「…この記述は…」彼は、書物と凛の顔を交互に見比べた。彼の顔から、徐々に血の気が引いていく。(まさか…彼女は…)

そして、ゆっくりと、しかし確信を持った声で言った。まるで、自分自身にも言い聞かせているかのように。

「…これは、君が来てから起こったことだ。我が久遠寺が、君によって救われた歴史が、ここに記されているのだ…君は…この書物に書かれている『ある一人の女性』…なのか…?」

暁人の言葉は、凛が目を背けようとしていた現実を、改めて突きつけた。自分が、この時代の歴史に、確かに、明確に刻まれてしまったのだ。それは、過去の出来事として、未来永劫語り継がれる記録となってしまった。

恐れで身体が硬直する凛を、暁人はそっと抱き寄せた。彼の腕は力強く、しかし優しく、凛の震えを止めるように、しっかりと彼女を支えた。書物は音を立てて床に落ちた。

「恐れることはない、橘殿。君は…久遠寺に光をもたらしてくれたのだ。多くの者を救い、この財閥を、帝都を…いや、この時代を救ってくれたのかもしれない…」暁人の声は震えていたが、その中には深い感謝と、凛への切ない愛情が込められていた。「この歴史は…君が創り出した、素晴らしい歴史だ…」

暁人の腕の中で、凛はどれくらい泣いただろうか。肩が震え、嗚咽が漏れる。歴史を変えてしまったという、想像もしていなかった重すぎる事実。資料館で見た、久遠寺財閥が衰退していく未来。それが、自分の手によって、全く違う形に書き換えられてしまった。未来はどうなる?元の世界はどうなっている?家族は?友達は?私のフォロワーたちは?彼らは、私が消えたことをどう思っているのだろう。私の存在は、もう、あの世界にはないのだろうか。

ごちゃ混ぜになった恐れと不安、そしてどうしようもない郷愁が、涙となって溢れ出した。暁人の力強い腕が、凛の震えを止めるようにしっかりと抱きしめてくれる。彼の心臓の音が、ドクドクと耳に響く。その温もりだけが、今、自分が確かに存在しているのだ、ということを教えてくれる唯一の確かなものだった。

やがて涙が枯れ、呼吸も落ち着いてきた。凛は、ゆっくりと暁人の腕の中から身を離した。顔はきっと、ひどい有様だろう。泣き腫らした目元、鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。カリスマインフルエンサーとしての完璧な自分とはかけ離れた姿に、恥ずかしくて、顔を上げられない。

「…大丈夫か」

暁人の声は、先ほどよりもさらに優しく、そして少し心配の色を含んでいた。凛は小さく頷くことしかできない。書斎のガス灯の柔らかな光が、二人の間に静かに揺れる。古びた書物の匂いと、インクの匂いが混じり合う。

「この書物に記されたことが、君を動揺させたのだな」

暁人の言葉に、凛はハッと顔を上げた。彼は、凛がただの記憶喪失ではないこと、そして、彼女が何か大きな秘密を抱えていることを、薄々気づいていたのだろう。彼の涼やかな瞳の奥に、以前から時折見せていた探るような色が、今は確信に変わっているのが分かる。それでも、彼はそれを追及せず、ただ静かに、凛の動揺を受け止めている。

「君が、どこから来たのか…なぜ、久遠寺の歴史を知っていたのか…詳しいことは、私には分からない。君が話せないというのなら、無理に聞くつもりもない」

暁人の言葉に、凛の胸が締め付けられる。彼は、私の秘密に気づいている。それでも、彼は私を拒絶しない。優しく、全てを受け入れようとしてくれる。

「だが、一つだけ確かなことがある。君が、我が久遠寺に、そしてこの時代に、多大な恵みをもたらしてくれたということだ」

暁人は、凛の手をそっと取った。彼の指先は少し冷たいが、その握る力は強く、凛の不安を吸い取ってくれるようだ。彼の温かい体温が、凛の冷え切った指先に伝わってくる。

「君が来てから、久遠寺は息を吹き返した。停滞していた事業に光が差し込み、人々の顔から暗い影が消えた。それは、この書物に記された、紛れもない歴史だ」

暁人の言葉は、凛が歴史を変えてしまったことへの恐れを、少しだけ和らげてくれた。自分がしてしまったことは、悪いことばかりではなかった。久遠寺を救い、多くの人々を笑顔にできた。それは、インフルエンサーとして、誰かを幸せにしたいと願っていた、もう一人の自分の願いでもあった。

「私は…私が、何者なのか、自分でもよく分からないんです…でも…」

凛は、震える声で、自分の正直な気持ちを話し始めた。声が震えて、言葉が途切れ途切れになる。

「…でも、タエさんや、久遠寺の皆さんが、私に居場所をくれました。何も思い出せない私に、優しくしてくれました。そして…暁人様が…」

言葉に詰まる。元の世界への郷愁。家族や友人への想い。それは、今も胸の奥で疼いている。でも、この時代で、確かに大切なものができてしまった。タエの温かさ。久遠寺の人々の優しさ。そして、目の前で、じっと自分の言葉の続きを待っている、暁人の存在。

暁人は、何も言わず、ただ静かに凛の言葉を待っている。彼の真剣な眼差しに、凛は勇気をもらった。

「…暁人様が、私の傍にいてほしいと言ってくれました。それが、今の私にとって、何よりも…何よりも、嬉しかったんです…」

そこまで言って、凛は顔を赤らめた。もう、隠すことはできない。この時代に流れ着いてから、ずっと心の支えになってくれた彼の存在。そして、いつしか芽生えていた、彼への愛情。

暁人は、そんな凛の様子を見て、ゆっくりと微笑んだ。その微笑みは、凛の心を温かく溶かしていく。彼の瞳に宿る光が、さらに強くなる。

「橘殿…いや、凛」

初めて、名前を呼び捨てにされた。ドキリとする。彼の声は、低く、落ち着いているが、その響きには、抑えきれない感情が込められているように聞こえた。

「君が、過去に何があり、未来に何があるのか、私には分からない。君が背負っている秘密が、どれほど重いものなのかも。だが、今、君が私の目の前にいる。そして、君が久遠寺に、私に、光をもたらしてくれた。それが、私にとっての全てだ」

暁人は、凛の手を両手で包み込んだ。彼の指先は、先ほどよりも温かい。彼の瞳は、月明かりに照らされて、強く輝いている。その輝きは、凛の不安を打ち消すようだ。

「私は、君と共に生きたい。君が、私の傍にいてくれるのならば、これ以上の幸福はない」

そして、暁人は、凛の手を握ったまま、ゆっくりと膝をついた。書斎のガス灯の光が、彼の真剣な横顔を照らし出す。

「橘凛殿。私、久遠寺暁人と、夫婦になっていただけませんか」

真摯な、そして少し緊張したような声だった。大正ロマンの時代に、久遠寺財閥の跡取りからのプロポーズ。それは、まるで夢のような光景だった。しかし、これは現実だ。

凛の頭の中で、遠い令和の記憶が駆け巡る。キラキラしたSNSの世界。仕事に追われる日々。友達とのカフェ巡り。それらは全て、眩い光を放ちながら、しかし、少しずつ遠ざかっていくように感じられた。もう、あの世界には戻れないのかもしれない。戻るべき場所は、もうここではないのかもしれない。

(私は…ここで、生きていくんだ…)

歴史を変えてしまったという事実。元の世界に戻れないかもしれないという不安。それらは消えないだろう。一生、心のどこかに残るだろう。しかし、それ以上に、この時代で得た大切なものがある。タエの優しさ。久遠寺の人々の温かさ。そして、目の前で自分を見つめている、暁人の深い愛情。

凛は、溢れる涙を拭い、ゆっくりと頷いた。声は震えていたが、その瞳には、強い決意が宿っていた。

「はい…私で、よろしければ…」

その瞬間、暁人の顔に、安堵と喜びの光が広がった。まるで、重い鎖から解き放たれたかのような、晴れやかな表情だった。彼は立ち上がり、凛を再び優しく抱きしめた。今度は、先ほどのような悲しみや恐れではなく、確かな愛情と、未来への希望が込められた抱擁だった。月明かりの下、二人の影が一つになる。書斎の窓から見える庭の木々が、静かに風に揺れる。帝都の夜空の下、時代を超えた二人の心が、確かに結ばれた瞬間だった。

二人の結婚の報せは、久遠寺家中に、そして帝都の財界に、驚きと共に迎えられた。記憶喪失の素性の知れない娘が、久遠寺の若旦那の妻となる。それは、この時代の常識からすれば、異例中の異例だった。しかし、凛が久遠寺にもたらした功績は誰もが認めるところであり、何より、暁人自身が凛を深く愛していることを隠さなかったため、反対する者はいなかった。むしろ、「若旦那様が選ばれたお方ならば」「久遠寺に福をもたらしてくださったお方だ」と、祝福の声が多く聞かれた。

当時の結婚の形式に則り、両家(と言っても、凛には身寄りがないため、久遠寺家が全てを取り仕切った)での顔合わせ、結納、そして盛大な披露宴が行われた。凛は、タエや久遠寺家の女性たちの助けを借りながら、この時代の花嫁としての準備を進めた。白無垢に身を包んだ凛の姿は、現代的な美しさと、この時代の奥ゆかしさが融合した、息を呑むほどの美しさだった。披露宴会場には、帝都の著名人たちが集まり、華やかな雰囲気に包まれた。凛は、緊張しながらも、持ち前の明るさと笑顔で、集まった人々に挨拶をした。

結婚して、凛は名実ともに久遠寺家の一員となった。暁人の妻として、彼女の生活は大きく変わった。朝は暁人と共に朝食を取り、日中は屋敷の管理を手伝ったり、久遠寺の事業に関する書類に目を通したりした。特に化粧品事業には引き続き関わり、新しい商品の開発や、販売戦略について意見を出した。彼女の現代的な視点は、この時代のビジネスに常に新しい風を吹き込んだ。久遠寺の研究所で、化学者たちと新しい色の化粧品開発に没頭する時間は、凛にとって喜びだった。

久遠寺財閥は、凛の活躍により、ますます繁栄していった。化粧品事業は帝都だけでなく、全国にその名を知られるようになり、久遠寺は新しい時代のリーダーとして、その地位を不動のものとした。凛は、財閥の妻として、社交界にも顔を出すようになった。モダンな洋装も、粋な和装も着こなし、持ち前の明るさとコミュニケーション能力で、多くの人々を魅了した。彼女は、「久遠寺の奥様」としてだけでなく、「新しい時代の女性」として、帝都の女性たちの憧れの的となっていった。

この時代での生活は、確かに満ち足りていた。愛する夫、温かい家族、そして、自分が社会に貢献できているという実感。しかし、ふとした瞬間に、遠い令和への郷愁が、胸の奥でチクリと痛む。満開の桜を見るたび、賑やかな街の雑踏に紛れるたび、家族や友人の顔が脳裏に浮かぶ。

(みんな、元気かな…私のこと、もう忘れちゃったかな…)

夜、暁人の隣で眠りにつく前、一人静かに目を閉じると、遠い世界が瞼の裏に蘇る。スマホの画面。友達とのLINE。お気に入りのカフェのBGM。それらは、もう二度と触れることのできない、失われた日常。

それでも、凛は前を向いて生きた。この時代で、自分が創り出した新しい未来を、大切に生きていくと決めたのだから。暁人が傍にいてくれる。タエがいる。久遠寺家の人々がいる。この時代にも、大切な人たちがいる。

暁人は、そんな凛の心の内を知っているのかいないのか、ただ静かに、そして深く凛を愛した。彼は、凛が時折見せる寂しげな表情に気づくと、何も言わず、ただ優しく抱きしめてくれた。彼の温もりは、時代を超えてきた凛の心を、確かにこの時代に繋ぎ止めてくれる錨だった。

凛は、この大正という時代で、新しい人生を歩み始めた。失った過去への郷愁を胸に秘めながら、愛する夫と共に、久遠寺財閥、そしてこの帝都に、新しい彩りを加えていく。彼女がこの時代にもたらしたものは、単なるビジネスの成功だけではなかった。それは、新しい美の基準であり、女性たちの生き方への示唆であり、そして、時代を超えた愛の物語そのものだった。


(第八話へ続く)





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