第五話:異色の才能と深まる絆

久遠寺家を覆う暗い影、それは事業の危機だった。凛は、久遠寺の重役たちが連日、書斎に集まって深刻な顔で議論している様子を度々耳にしていた。彼らの口から漏れ聞こえる「赤字」「不採算事業」「倒産」といった言葉に、凛の胸はざわついた。タエにそれとなく尋ねてみると、どうやら久遠寺が手がけている多岐にわたる事業の中で、特に化粧品部門が深刻な不振に陥っているらしい。在庫が山のように積み上がり、売上は低迷の一途を辿っているという。

(化粧品…? それなら、私に何かできることがあるかも…!)

インフルエンサーとして、トレンドを読み、ターゲット層の心を掴むマーケティング戦略を熟知している凛にとって、化粧品の不振は他人事ではなかった。むしろ、自分が培ってきた知識が、この時代で役に立つかもしれないという、一筋の希望の光が見えた。しかし、それをどうやって伝えるか。記憶喪失の娘が、いきなり「私に任せてください!」などと言い出しても、信用されるはずがない。

凛は慎重に機会を伺った。ある日、暁人が書斎から出てくるのを見計らい、廊下で偶然を装って声をかけた。

「若旦那様、何か、お悩みでいらっしゃいますか?」

暁人は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻った。

「…橘殿に、心配をおかけするようなことではない」

彼の言葉には、どこか疲労の色が滲んでいた。凛は意を決して、切り出した。

「もし、私でお役に立てることがあるのでしたら…お力になりたいと、思っております」

暁人は怪訝な顔で凛を見た。記憶喪失の娘に何ができるというのか。しかし、凛の目は真剣だった。そのまっすぐな視線に、暁人は何かを感じ取ったようだった。

「…久遠寺の化粧品事業が、行き詰まっているのだ」

暁人は、観念したように現状を説明した。凛は、彼の話を注意深く聞いた。そして、彼が話し終えるのを待って、ゆっくりと自分の考えを述べ始めた。

「あの…もし差し支えなければ、私がいくつか、ご提案させていただいてもよろしいでしょうか」

凛は、現代で培ったマーケティング戦略の知識を総動員し、言葉を選びながら、この時代の人々にも分かりやすく説明した。例えば、商品を並べるだけでなく、実際に手にとって試してもらう「タッチ&トライ」の重要性。現代の雑誌広告のような、視覚に訴えかける「イメージ広告」の有効性。そして、商品の機能性だけでなく、それを使うことで得られる「感情的価値」を顧客に訴えかけることの重要性など。最初は半信半疑だった暁人の目に、徐々に驚きの色が浮かんでいくのが分かった。彼の知性をもってすれば、凛の言葉の裏にある「何か」を察するのは容易いことだったのだろう。

成功、そして尊敬の念

凛の突飛な、しかし現代的なマーケティング戦略は、まさに奇跡と呼ぶべき効果を発揮した。彼女が考案した、可憐な女性モデル(もちろん、久遠寺の使用人の娘に、凛が自らポーズや表情を指導したのだ。最初は戸惑っていた娘も、凛の熱心な指導と「可愛く写るのよ!」という言葉に、次第に心を開いていった)を起用した新聞広告は、瞬く間に読者の目を惹きつけた。モノクロの紙面に、はにかむような笑顔を浮かべた娘が、そっと頬に白い粉をはたく。その仕草の可憐さたるや、これまでの無機質な商品広告とは一線を画していた。

キャッチコピーも、商品の成分を羅列する味気ないものではなく、使用することで得られる「美しさ」「輝き」といった、女性の感情に深く訴えかける言葉を選んだ。「あなたも、久遠寺のおしろいで、朝露に濡れた花のような肌を手に入れませんか?」――その言葉は、当時の女性たちの内に秘めた美への憧れを、そっと呼び覚ますようだった。それは、まるで魔法の言葉のように、彼女たちの心を捉えた。

さらに、主要な百貨店の店頭に、商品を試せる小さな台座を設け、使用人が使い方を丁寧に説明する、という斬新な方法を提案した。これは、現代でいう「タッチ&トライ」の先駆けともいえる手法だ。百貨店の一角に設けられた特設ブースは、白木と淡い藤色の布で飾られ、柔らかな光が差し込むように工夫された。久遠寺の制服を身につけた若い娘たちが、一人ひとりの客に寄り添い、鏡の前でゆっくりと白い粉を肌に乗せていく。その丁寧な所作と、試供品の上質な肌触りが、客の購買意欲を掻き立てた。ブースの前には、連日長蛇の列ができた。

結果は、歴然だった。それまで久遠寺の倉庫で埃をかぶっていた化粧品が、まるで解き放たれたかのように、飛ぶように売れ始めたのだ。特に若い女性たちの間で評判となり、「あの久遠寺の新しいおしろい」「つけると肌が明るくなる」と、口コミは燎原の火のように広がっていった。雑誌にも取り上げられ、「久遠寺の新製品、モダンガールの必需品!」といった見出しが踊った。最初は懐疑的だった久遠寺の重役たちも、目の前の膨大な売り上げ増加に、驚きを隠せない。彼らは口々に「これは、まさに神業じゃ」「橘殿は、福の神に違いない」と呟き、その視線にはもはや一片の疑いもなかった。彼らは、凛をまるで生き神様のように崇めるようになった。

屋敷に満ちる尊敬の念

屋敷の中での凛への視線は、劇的に変わった。以前は、単なる記憶喪失で保護された可哀想な娘、という憐憫の眼差しばかりだったが、今やそれは完全に消え失せ、代わりに向けられるのは、感心、尊敬、そしてある種の畏敬の念だった。

(うわ、なんか視線が熱い…まるでアイドルになった気分だ…)

凛は心の中で苦笑した。だが、その居心地の悪さの中に、確かな達成感と、認められた喜びを感じていた。自分の力が、この時代でも通用することへの、確かな手応えだった。

女将さんや他の親戚らしき人々も、以前は当たり障りのない、どこか事務的な対応だったのが、今では会うたびに丁寧な挨拶をし、「橘様のおかげで、久遠寺が救われました」と深々と頭を下げるようになった。その頭の下げ方は、以前の挨拶とはまるで違い、心からの感謝が込められているのが見て取れた。茶を運んでくる若い使用人たちも、すれ違うたびに尊敬の眼差しを向け、そのたびに凛は少し照れくさくなるのだった。

タエは、まるで我が事のように喜び、事あるごとに凛の手を取って「凛様は福の神でございますよ」とまで言った。

「ああ、本当に、凛様がいらしてから、屋敷の中が明るくなりました。若旦那様も、以前よりお顔の表情が柔らかくなられたような…」

タエの言葉に、凛は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。自分の力で、この世界の、しかも日本有数の財閥の危機を救った。インフルエンサーとして、何十万、何百万という人々に影響を与えてきた経験は、100年前の帝都でも通用したのだ。その事実は、凛に大きな自信と、この世界で生きていくための確かな足がかりを与えてくれた。

(すごい…私のやってきたことって、この時代でも通用するんだ…!あの時、インスタでバズらせたテクニック、まさか大正時代で役に立つとは…!これは、もしかしたら…いけるかも…?)

成功の喜びと、久遠寺家の人々からの心温まる感謝は、凛の心を幸福感で満たした。

しかし、同時に、心の中でけたたましく警鐘が鳴り響いていた。この成功は、彼女が未来から来たという、最大の秘密の上に成り立っている。彼女が持ち込んだ現代の知識や発想は、この時代においてはあまりにも突飛で、理解を超えたものだ。いつか、それが露見する日が来るのではないか。そして、その時、この温かい居場所を、信頼してくれる人々を、全て失うのではないか、という不安が常に付きまとっていた。それは、成功の裏に潜む、見えない毒のように、じわじわと凛の心を蝕んでいく。

(この人たちは、私が未来から来たって知ったら、どう思うんだろう…きっと、化物か何かみたいに思われる…いや、もしかしたら、捕まっちゃうかも…)

凛は、時折、冷たい汗をかくのを感じた。その秘密は、まるで巨大な砂時計の砂のように、常に彼女の心を圧迫していた。

暁人の変化と深まる絆

そして、もう一つ、凛を取り巻く空気が劇的に変わったことがある。それは、久遠寺暁人との関係性だった。

事業の危機を共に乗り越えたことで、暁人の凛に対する態度は、以前のような分析するような、冷たい視線から、明らかに変化していた。彼が凛を見る瞳は、もはや好奇心や疑念の色ではなく、どこか安堵したような、そして探るような色の代わりに、複雑な感情を宿らせて見つめてくるようになった。それは、畏敬の念であり、感謝であり、そして微かな戸惑いと、隠しきれない親愛の情が混じり合っていた。彼の視線は、凛の心を穏やかに撫でるようだった。

ある夕暮れ、庭の縁側で一人、夕焼けを眺めていた凛の隣に、暁人がそっと腰を下ろした。

「橘殿のおかげで、助かった。感謝する」

二人きりになった時、暁人はまっすぐに凛の目を見て、そう言った。その声は、以前のような冷ややかさはなく、心からの感謝が込められているように聞こえた。夕日に照らされた彼の横顔は、いつもより少しだけ柔らかく、しかし、依然として財閥の若旦那としての重責を背負っていることを物語っていた。その表情には、凛が見たことのない、安堵の表情が浮かんでいた。

「いえ、あの…私にできることでしたら…」

照れくさくて、つい言葉に詰まる凛。暁人は、そんな凛の様子を見て、わずかに口元を緩めた。彼の纏う空気が、以前よりもずっと柔らかくなったように感じる。それは、氷が解けて、春の光を湛えるような変化だった。

それからも、暁人は何かにつけて凛に話しかけてくるようになった。事業の現状、今後の展開、この帝都の経済情勢、そして、彼自身の抱える重圧について。久遠寺財閥の跡取りとしての責任、周囲からの途方もない期待、そして、それを一人で背負う孤独。彼は、普段誰にも見せないであろう弱い部分を、凛には見せた。それは、まるで心を許した友人にするかのように、飾らない言葉で語られた。

「この財閥の行く末は、全て私の肩にかかっている。父は、私に全てを託して逝ったからな…」

暁人の声には、並々ならぬ覚悟と、途方もない重圧が込められていた。凛は、彼の話を聞くうちに、彼の抱える孤独や苦悩を理解し、深く共感するようになった。そして、彼の知性、誠実さ、そして何よりも、巨大な財閥を背負う者としての揺るぎない気概に、強く惹かれていった。それは、現代のキラキラした世界で出会った、どんなに素敵な男性とも違う、深く、本質的な魅力だった。彼の傍にいると、心が落ち着き、不思議な安心感に包まれた。彼の視線の奥には、凛の強さと聡明さを認める、深い尊敬の念が宿っているのが見て取れた。

揺れる花嫁候補の心

ある日の午後、凛は自室の庭で花に水をやっていた。淡いピンクの藤が、風に揺れて甘い香りを漂わせている。その時、縁側から聞こえてくる、女将さんとタエのひそひそ話が、凛の耳に偶然届いた。

「…橘様のような、賢くて、度胸のあるお方が、もし久遠寺の嫁御寮になってくだされば…若旦那様も、さぞお心強いことでしょうに…」

女将さんの声は、いつになく真剣な響きを帯びていた。

「ええ…全くでございます。あのように新しい考えをお持ちの方ならば、久遠寺の未来は安泰でございましょう…」

タエの声にも、心からの同意が込められている。

「嫁御寮」。「若旦那様」。

凛の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。花嫁候補。自分が、暁人の花嫁候補として、久遠寺家の中で真剣に検討されている…?

(え、まさか…私がお嫁さん…? あの、久遠寺の…? こんな記憶喪失の私が…? でも、ここまで認めてもらえたってこと…?)

驚きと同時に、形容しがたい感情が胸に広がった。それは、少しの戸惑いと、そして…淡い期待のようなものだった。久遠寺家の安定した地位。そして、暁人の隣。それは、この未知の世界で、自分が得られるかもしれない、最も確かな居場所だった。この時代の不安定な状況を思えば、これ以上の安寧はないだろう。

しかし、その淡い期待はすぐに、激しい葛藤へと変わる。久遠寺の嫁になるということは、この大正時代に骨を埋めるということだ。元の世界との、完全な断絶。家族、友人、愛するSNS、そして自分のキャリア…全てを、永遠に失うということ。その重みが、ずしりと胸にのしかかる。

消せない郷愁

一人になると、凛は激しいホームシックに襲われた。この時代の生活にも慣れ、着物での立ち居振る舞いも板についてきた。最初は慣れなかった草履も、今では足に吸い付くようだ。食事も、初めは物足りなく感じたものの、この時代の素朴な美味しさ、素材の味を活かした繊細な味付けに気づくようになった。流行りの洋装や、タエに連れられてこっそり行ったモダンなカフェーの華やかさにも、大正浪漫の抗いがたい魅力を感じていた。竹久夢二の絵のような、儚くも美しい世界観は、確かに凛の心を引きつけていた。

それでも、ふとした瞬間に、強烈な郷愁が襲い来る。

(あー、スタバの新作飲みたい…!マジで、今すぐタピりたいんだけど…!あと、あの時の撮影のデータ、どうなったかな…?インスタ、みんな何載せてるんだろう…)

失った日常を思うたび、胸が締め付けられる。この時代には、自分の存在を知る者は、今目の前にいる久遠寺の人々だけだ。令和の日本には、自分の生きた証が、データとして、記憶として、確かに残っているはずなのに。その事実は、凛を深く絶望させた。

密かに、元の世界に戻る方法を探す努力は続けていた。タエにそれとなく、この辺りで変わった出来事や、不思議な現象がなかったか尋ねたり、書物で雷に関する記述を探したりした。図書館に通い、雷に関する古文書や民間伝承を片っ端から調べたが、有力な情報は皆無だった。雷に打たれてタイムスリップなんて、この時代の人間に話しても、笑われるか、本気で心配されるだけだろう。

(タイムマシンなんて、漫画の中だけの話だもんね…でも、本当にどうやって戻ればいいんだろう…)

時間が経つにつれて、元の世界に戻るということが、非現実的な夢のように思えてきた。この時代の生活に深く根を下ろしつつある自分を感じる。久遠寺の人々との絆。そして、暁人への気持ち。

暁人もまた、凛への気持ちを隠さなくなってきた。彼の視線は、もはやビジネスのパートナーを見るものではなく、一人の女性に向けられる、熱を帯びたものになっていた。彼は、凛の現代的な考え方や、困難に立ち向かう強さを心から尊敬し、同時に、記憶を失いながらも前向きに生きる凛の姿に、強く惹かれているようだった。彼の心の中には、凛に対する深い信頼と、守りたいという強い感情が芽生えていた。

月下の告白

ある夜、月明かりの下、庭を散策していた凛に、暁人が声をかけてきた。庭の池には月が映り込み、涼やかな風が藤の香りを運んでくる。

「橘殿は…この帝都に、いつまで滞在されるおつもりだ?」

その問いに、凛は言葉を失った。滞在。それは、いずれは去ることを前提にした言葉だ。しかし、彼女にはもう、帰る場所がない。

「私…その…どこへ行けばいいのか、分からないんです…」

絞り出すような声で答える。凛の瞳には、ほんの少しの不安と、そして、暁人には見せたくない脆さが滲んでいた。暁人は、一歩近づき、凛の瞳を覗き込んだ。彼の瞳には、月の光が宿り、深い感情が揺れているのが見て取れた。

「もし…もし、君が望むのであれば…久遠寺に、留まってくれないか」

月の光を浴びて、暁人の顔が微かに赤らんでいるように見えた。その真剣な眼差しに、凛の心臓が激しく脈打つ。

「久遠寺に…?」

凛の声は、驚きと戸惑いで震えていた。

「ああ。記憶が戻るまで、とは言わず…いや、例え記憶が戻らずとも…君がこの場所を、この時代を、受け入れてくれるのであれば…」

暁人の言葉には、続きがあった。しかし、その続きを口にする前に、彼は一度言葉を区切った。そして、意を決したように、凛の手をそっと取った。彼の指先は、少しだけ震えていた。その震えが、彼の緊張と、この告白への覚悟を物語っていた。

「…私の傍に、いてほしい」

その言葉は、飾り気のない、純粋な響きを持っていた。久遠寺財閥の若旦那ではなく、一人の青年としての、真っ直ぐな想い。凛の手を握る、彼の少し震える手に、その全てが込められているように感じた。彼の手のひらから伝わる温もりが、凛の心を強く揺さぶった。

凛の頭の中では、現代の喧騒と、この時代の静寂が同時に響いていた。フォロワー100万人超えのカリスマインフルエンサーとしての自分。そして、記憶を失った異邦人として、この時代に流れ着いた自分。どちらの自分も、真実だ。

(私は…どうしたいんだろう…?このまま、この時代で生きていくの…?それとも、もう一度、あのキラキラした世界に戻れると信じて、探し続けるの…?)

遠い過去への郷愁と、目の前にいる暁人への恋情。二つの時代で揺れる心は、今、最も激しく、そして切なく脈打っていた。月明かりの下、二人の影が庭石に長く伸びていた。凛は、この告白にどう応えるのか。そして、彼女の選ぶ道は、久遠寺、そして彼女自身の未来をどう変えていくのだろうか。


(第六話へ続く)


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